いつまでも、まっている〜嶋岡晨(しん)の詩「かくれんぼ」〜

2018/11/06
いつまでも、まっている〜嶋岡晨(しん)の詩「かくれんぼ」〜
朝夕が、本当に寒いぐらいになりました。
夕方のアンジーの散歩時に、
外で遊んでいる子どもを見かけなくなりました。

子どもはどこにいるのかしら?
そう思って、ちょっと思い出した詩を
今朝は取り上げたいと思います。

「読書への誘い」第98号で紹介したものです。

  「かくれんぼ」  嶋岡 晨

 

 木の中へ 女の子が入ってしまった

 水たまりの中へ 雲が入ってしまうように

 出てきても それはもうべつの女の子だ

 もとの女の子はその木の中で

 いつまでも鬼を まっている

   (詩集『薔薇色の逆説』・1954年刊)

 

 

「もう、いいかい?」「まーだだよ」

「もう、いいかい?」「もーいいよ」

 

そうやって隠れるのは、上手く隠れて

見つからないようにするためだけど。

でも、とことん見つからないことは望んでなくて。

 

なかなか見つけてもらえないけど、

いずれ見つけてもらえることを望んでいる。

 

上手く隠れすぎて見つけてもらえないときには、

自分が忘れ去られているような不安に襲われて、

「ここだよー」なんて言って、

自分から出てきたりする。

 

すぐには見つけて欲しくないけど、

一生懸命探して見つけて欲しい、…「私」を。

 

本当の私を。

人にはなかなか分かってもらえない私を。

 

けれど、そんな「私」は人はなかなか見つけてくれなくて。

そうすると、自分で出て行くしかないんだけれど、

大事な「私」は秘密の場所に置いたまま、

表向きの、誰にでも受け入れてもらいやすい私で、

出て行く。

 

でも、本当の、大事な「私」は

隠した場所に置いたまま、で。

 

 

…そんな風なことを思ってしまった。

 

それは、この詩の「女の子」だけがしていることではなくて、

人は誰でも、大事な「私」をそんな風に守っている気がして。

 

本当の、大事な「私」を見つけてくれる人には、

そうそう出会えなくて。

 

出会えたときには、ほっとして涙がとめどなく流れるのでしょう。

…という場面が、カウンセリングルームでしばしばあります。

 

「かくれんぼ」していて、見つけてもらえない淋しさを感じている方、

一度、私のカウンセリングルームに来られませんか?

 

画像は、今年10月に撮った馬見丘陵公園。

トンネルを抜けると、違う世界が広がっています。