わたしの内部のさしだしかた〜吉田加南子の詩「コスモス」〜

2018/11/26
わたしの内部のさしだしかた〜吉田加南子の詩「コスモス」〜
「読書への誘い」第115号を更新したときに、
吉田加南子の詩「コスモス」を目にして、
コスモスをこんな風に見るのか! とちょっと驚いて。

今朝は、この詩を取り上げたいと思います。


  「コスモス」   吉田 加南子

 

 内部を

 すっかり外にはなってしまう

 ひとつきりのその咲きかたに

 コスモス

 おまえたちはためらったことはないのだろうか

 

 手のさしのべかたや

 眼(め)でみつめるみつめかたを

 わたしはどこかでとりちがえてしまった

 群れている花々を

 風がわたる

 見上げると

 空があたらしい

 

 もういちど重い闇(やみ)に閉ざされたら

 わたしも思いだせるだろうか

 わたしの内部のさしだしかたを

 

 それとも

 見失われてしまって わたしのなくしもの

 さがしにゆくには

 もうおそいのかしら

       (詩集『仕事』・ 1982 年刊)

 

 

「内部を/すっかり外にはなってしまう/ひとつきりのその咲きかた」って

そんな風にコスモスの花を見るんだ…!と

本当に、ちょっと驚きでした。

そう言われれば、思い切りよく外に向かって自分を開放しているように見えます。

 

花びらは少し反ったようにも見えて、

精一杯、おしべやめしべが密集している中心部を外に向かって差し出しているような。

 

その思い切りの良さに作者は感動するのですね、私にはそんなことはできない、と。

 

外部世界での自分の扱われ方に傷つき、

自分から手をさしのべたり、見つめたり、

そんなことをためらいもなくすることを忘れてしまった、と。

 

それで、やり直したいのね。

「もういちど重い闇(やみ)に閉ざされたら」と。

一度、外部世界を遮断し、自分の中に引きこもりたいのね。

 

でも、ためらいも、ある。

「見失われてしまって わたしのなくしもの/さがしにゆくには/もうおそいのかしら」と。

 

大丈夫。

コスモスの咲き方に、自分のありようを見つめる眼があるなら、

自分を閉ざさないで、そうして傷つけられもしない「立ち位置」を創っていける。

 

身構えずにいて、傷つけられもしないありよう。

自分を開きながら、より豊かでいられるありよう。

 

そうですね。

コスモスの花が、風に揺れて優しげに見えるようで、

実は、すっくと立っていないと倒れてしまう。

 

しかし、揺れるからこそ折れないでいるのですね。

そんな風に、芯が強いと折れない。

強面(こわもて)でいる必要はどこにもない。

 

そんなことも思いました。

 

カウンセリングに来られる方は、

今の自分は、どこか本来の自分ではない、とその違和感に苛まれて

ルームを訪れられたと思います。

 

そうですね。

カウンセリングルームは、「引きこもり」の、さなぎの場所かもしれません。

 

いずれ、自分を取り戻して、力強く羽ばたいていかれます。

…昨日も、おひとり、カウンセリングを終えられました。

 

画像は、先月に撮った、馬見丘陵公園のコスモス。