根を持つことと翼を持つこと〜津田真人さんの講義「ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法ーからだ・こころ・社会ー」(2)〜<改訂版>

2020/01/18
根を持つことと翼を持つこと〜津田真人さんの講義「ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法ーからだ・こころ・社会ー」(2)〜<改訂版>
午後の部は「ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法を比較する」。
まず、きちんと「何を対比するのか?」という問いが立ててあって。

ポリヴェーガル理論は、まず理論があって、その臨床応用として臨床的な実践がある。
一方のゲシュタルト療法は、まず「今・ここ」での体験があって、それに基づく理論化がある。
この、真逆のベクトルを持つ両者を比較対照する視座として、実践のレベルに先立つスキーマ(=無意識の暗黙の前提)レベルでの比較、を、津田さんは提示する。

後半の講義は、
1 ポリヴェーガル理論と共通するゲシュタルト療法のスキーマ(理論的前提)
2 ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法の相違点
3 ゲシュタルト療法のトラウマ・セラピーとしての可能性
という流れで展開されました。

まず、「ポリヴェーガル理論と共通するゲシュタルト療法のスキーマ(理論的前提)」について、共通スキーマは5つある、とされました。
その第5番目。

【有機体としてのバランスの崩れからの脱出には、「今・ここ」という真に「安全」な「真の関わり」の場が不可欠。それによって、「生物性」と「社会性」が両立する。】

私は、この「『生物性』と『社会性』の両立」という視点に非常に興味を覚えました。
生き物として、人は生体反応から逃れられない。
「生身の身体」(=胃が痛い、とか、お腹が痛い、とか、息が詰まる、とか、起き上がれない、とか)を持てあますことが、これまで多々あった私は、そういった生体反応を起こしているときには、当然「社会生活」が円滑に営めなくて、周囲に迷惑を掛けたりもした。
円滑な社会生活を営むには、そういった生体反応を起こさない状態でいないといけない。
つまり「心の健康」を保つことを考えないといけない、ということに気づく流れ。
ゲシュタルトを始めたきっかけが、父が亡くなって、その死に目に会えなかった、ことからくる不調、だったので。


「ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法の相違点」については、まず、ゲシュタルト療法で「目につく」とする実存主義的スキーマ(世界観)を、「真か偽か」という二項対立で、津田さんは提示された。
「真」とは、「『今・ここ』のプロセスそのものへの直接的・全面的・自発的な生きた関わり(感覚)=being」であり、
「偽」とは、「プロセスをモノ化する、間接的・部分的・意図的な死んだ関わり(思考)=having」である、と。

「真の自己・真の実存・真の関わり」から「偽の自己・偽の実存・偽の関わり」に移行するのは、回避・迂折(うせつ)するときであり、
「偽の自己・偽の実存・偽の関わり」から「「真の自己・真の実存・真の関わり」に移行するのは、自己実現するときである、との図解もわかりやすかった。

その時、では、誰がその「真・偽」を決めるのか、という「問い」の立て方もラディカルで。
セラピストの方が真理(←解釈・見立て・スキーマ・定説等)を握る「精神分析」への批判として、マリー・ボナパルトの「『リビドー理論』という科学的信仰」という言葉が紹介されました。
パールズの言葉として紹介された、「『解釈』はつねにmind-fuckingでしかない」、「『理解』はunder-standとしてのunderstand」からも、パールズの「精神分析」への反発が感じられました。

しかし、と津田さんは続けます。
パールズの「精神分析」批判は、トラウマに関しては誤りだった、と。
「私は偽造でなかった幼児期トラウマなど、一例も見たことがありません。それらはすべて、自らが成長を嫌がることを正当化するためにしがみついている嘘なのです。成熟するということは、自分の人生に責任を持ち、自分自身に頼るということです。精神分析は神経症の責任は過去にあると考えることによって、幼児性を育てているのです。」(1969年)(倉戸ヨシヤ監訳『ゲシュタルト療法バーベイティム』からの引用)

引用の後に、津田さんの明快な「補足説明」があって。

精神分析との本当の違いは、この過去の「心理的事実」を真の原因と見なすか否か、にのみある。
パールズは精神分析に対抗するあまり、トラウマは虚構であり偽造であり、嘘にすぎないものとしたが、原因なるものがそもそも真ではない、と言うはずのことではなかったか。
事実であれファンタジーであれ、それを身体は「今・ここ」で表現しており、その(「なぜ」ではなく)「いかに」表現しているかという「今・ここ」の現実こそが唯一の真なのだから。

ゲシュタルトのワークの場で、「『なぜ』と問わない、『いかに』を問う」と繰り返し言われたことが蘇りました。
その時は、ふう〜ん…と思っただけでしたが、ここに至って明快な答えを貰った気がしました。


ポリヴェーガル理論とゲシュタルト療法の大きな違いは、「日常」「安全」のとらえ方の違いである、と。
ポリヴェーガル理論の方は、単純に安全は安全、危険(脅威)は危険(脅威)、と。
ゲシュタルト療法の方は、安全には「偽の安全」と「真の安全」があって。
「偽の安全」とは「予測可能な安全」。これはポリヴェーガル理論が前提する安全。
「真の安全」とは「予測不能な安全」。ゲシュタルトはこちらを真の安全、とする。
ゲシュタルト療法は、「予測可能な安全」よりもずっと安全な「予測不能な安全」「リスクを冒す安全」を取る。
これは、創造性の源泉であり、「安全」というより「自由ないし自律」と呼ぶべき状態であるかも、と津田さんは言う。

面白かったのは、その2種類の安全は、「今・ここ」の両義性とに関連する、という視点。

“一方では、何時でもどこでも、つねに自分のいる場=存在の基盤(「今・ここという永遠のふるさと」に根を持つこと→予測可能性)
他方では、一瞬一瞬たえず更新され変動してゆく場=創造性の源泉(「今・ここというたえざる流動性」に翼を持つこと→予測不可能)

「根を持つ」「翼を持つ」という表現に、誰かの本の題名みたいな…と思いました。(あ、田口ランディだ!)

「ゲシュタルトでは、『未完了の問題』の中に、ストレスもトラウマも含まれ、渾然一体となっている」ことの説明がなされ、それを乗り越える原動力は「コンタクト&気づき」にある、と。
ゲシュタルト療法が「コンタクト」と言うとき、「相違性の認識」に軸足を置く。それは自他分離的な関係性で、いわばポリフォニー。
一方のポリヴェーガル理論が「社会的関与」と言うとき、「同調の認識」であり、ゲシュタルト的には「融合(コンフリューエンス)」で、偽の社会性に近い。それは自他同調的な関係性で、いわばシンフォニー。
自他同調的な関係性は安全・安心の確保に、自他分離的な関係性は、自由・自律の確保に不可欠といえるのではないか、という見解を示されていました。

個が尊重されてこそ「社会」とする立場のゲシュタルトからすると、過度のサポートを忌避するのは当然。
一方のポリヴェーガル理論にとっての「社会」には、自他分離的な(予測不能な)友好関係も含みうるかか不明であり、自他同調的な友好関係でも、ゲシュタルトにおける「偽の社会性」(=融合、定型行動、役割演技)を排除する論理を持たない、ことにたいする疑念が提示されていました。


「ゲシュタルト療法のトラウマ・セラピーとしての可能性」については、まず、「トラウマ・セラピーに求められること」を挙げ、ゲシュタルト療法がそれにどう応えうるか、という視点で整理されていました。

資料を見返してみて、講義中にはそれほど深く触れられなかったように思うのですが、「フィードバックの意義」として、
「ロジャーズ(言葉)とパールズ(身体の経験)」という対比が書かれていました。

1日目のレズニック博士のセッションで、ビデオ視聴後の感想で、ご自分の「対話」がロジャーズに似ているという発言があったときに、「ロジャーズは素晴らしかった。けれど、ロジャーズの方からはクライエントの方に行かなかった」「クライエントによって、自分の中に何が生じたかを伝えるのが『対話』」ということを言われていたことを思い出しました。
まさしく、ロジャーズは「言葉」をフィードバックし、ゲシュタルト・セラピストであるレズニック博士は「身体の経験」をフィードバックされていたのだ、と思い当たりました。

とてもとても…たくさんの、考える材料をいただきました。
取り寄せた『「ポリヴェーガル理論」を読むーからだ・こころ・社会』が届きましたので、読んでいこうと思います。