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  1. カウンセラー紹介
  2. 不登校、夫婦関係、親子関係、教員の悩みを 教員歴31年のカウンセラーがスッキリ解消!   心理カウンセラー 葛原(くずはら )昌子

不登校、夫婦関係、親子関係、教員の悩みを 教員歴31年のカウンセラーがスッキリ解消!

  心理カウンセラー 葛原(くずはら )昌子

大丈夫。きっと心から笑える日が来ます。

不登校、夫婦関係、親子関係、教員の悩みを 教員歴31年のカウンセラーがスッキリ解消!
  心理カウンセラー 葛原(くずはら )昌子

奈良県奈良市生まれ。

2016年10月、31年間勤めた公立高校を早期退職し、地元に戻り、カウンセリングルーム沙羅Saraを開設。

【「気づきノート」方式カウンセリング】®により、うつや不安神経症の早期解決を導き出している異色の心理カウンセラー。

 

公立高校国語教諭であった31年(奈良6年、広島25年)の在職中は、

教諭10年目にリカレント教育として、大学院に進学して、論説文の指導法研究にいそしむ。

その後10年にわたり、広島大学紀要や広島大学教育センター紀要に授業研究論文13本を執筆。

文部科学省の「科学研究費」(個人の部)を平成14年・16年の2回受給。

また平成17年には、「財団法人 一ッ橋文芸教育振興会」(集英社)の「第14回 読書指導体験記コンクール」で、振興会賞を受賞。

 

長年の国語教員の経験から、「書くこと」が人の内省を促し、自分自身を客観的に見ることができる効用に気づいていた。

新たに心理カウンセリングを行うにあたって、そこから【「気づきノート」方式カウンセリング】®を考案。

開業以来2,000回超のセッションを実施しており、長くても2ヶ間4回のカウンセリングで、ほぼ100%の方が何らかの効果を実感しています。

 

また、ルーム開設に当たって、ナードジャパンのアロマ・アドバイザー資格を取得し、薬に頼らず、アロマオイルによる不眠、不安を和らげる方法を伝授しています。

その他、ボイスアーティスト資格も取得し、呼吸法による精神安定法もお伝えしています。

 

我が子の不登校の克服経験を持ち、子どもが不登校状態にある小・中・高校生のお母さんのカウンセリングを行うことで、不登校の解決だけでなく、親子関係の改善も実現しています。

また、長年、組織の中で働いてきた経験から、教員、医療関係者、一般企業で働く方の悩みの早期解決にも効果的であると好評です。

 

今後のビジョンは、一人でも多くの方に「程よい人間関係のキョリ」を作り出し、ラクに生きていく支援していくこと。

また、自尊感情の低い方や、本や講演会などで学んでもなかなか自分の悩みを解決できない方が、自分で現状を変え、自分自身の人生を歩んでいく支援をすること。

 

※【「気づきノート」方式カウンセリング】®は商標登録済みです。

 

 

  

もう少し詳しいプロフィール

カウンセリングが成功するかは、カウンセラーとの相性がとても重要になります。興味がもてるところがありましたら、ぜひその部分だけでも読んでみてくださいね。           

 1 親から過剰な期待を受け、良い子であろうとした子ども時代

思い出す限り、私には楽しい子ども時代の記憶がありません。

 

両親とも、親兄弟と心理的に疎遠だったため、二人姉妹の長女に産まれた私に、過剰に期待をしました。

 

成績優秀であってほしい、親の願いを叶える素直な子であってほしい、そして、いつまでも一緒に暮らしていきたい。

 

幼稚園児の時から「おまえはお嫁に行かないんだよ」と言われて育ちました。(養子縁組による結婚という意味でした。)

 

しつけは厳しく、事細かに制約がありました。

 

私は息苦しさを感じながらも、親の期待に添いたい子どもでした。

 

ちょっとばかり学校の成績が良かったために国立大学の附属中学校を受験することになりました。

 

不合格だったのですが、落ちたことよりも親を残念がらせて悲しかったことが記憶として残っています。



2 中1の時の「いじめ体験」により心の傷を背負う

中1の秋頃、学校に子犬が迷い込みました。クラスでお金をカンパして、飼っていました。

 

そうは言うものの、大きくなってくるし、冬になると寒くなるし、クラス委員としてそのままにしておけないと思いました。

 

担任の先生に相談して、誰か引き取ってくれる人を探す時間を取りたいと考えました。

 

学級会か何か、その時間を捻出してもらうことになって、無事、引き取り手が決まりました。

 

直後、カンパを募った人は、やり方が気にくわなかったのか、先生に言いつけたと周囲を焚き付け、私を露骨に無視し始めました。

 

私もその人に一言相談してからにすれば良かったのだと思います。やり方がまずかった。

 

けれど、言いがかりをつけて「いじめる」ことがゲームとして面白かったのでしょう。

 

私の言い分を聞いてくれることもなく、4ヶ月にわたるいじめが始まりました。

 

中には、その中心グループがいないときに「大変ね」と声を掛けてくる人もいました。

 

私にとって、そのような同調する「傍観者」の方がひどいと思いました。

 

あなたが同じように無視しなければ、私を苦しめなくて済むのに、と。

 

学校は一日たりとも休みませんでした。親にも言いませんでした。

 

そのうち、見るに見かねた誰かが告げたのでしょう。担任の先生の知るところとなり、やっと終わりました。

 

この経験は、教員になったときに、いじめの構造がどんなものかの理解につながりました。

 

そして、どんなことがあっても「いじめ」を許さない、「傍観者」であることを許さない、という気持ちを持つことに。

 

それから、人づきあいが苦手で悩む子に、クラスみんなと無理に仲良くしなくても普通に最低限のつきあいをするのでいいとアドバイスできること、いじめられた子の、親に知られたくない気持ちを理解できることにつながりました。



3 親が決めた進路に逆らえず、我慢しか選択肢がなかった高校3年生

高校進学は、自分の生きたい学校と親が行かせたい学校が一致したので、問題はありませんでした。

 

大学進学は、「私立ダメ、下宿ダメ、浪人ダメ」でした。

 

高3になって、大学を指定され、それ以外は学費は出さない、とのお達しでした。

 

親の希望は、私が小学校の教員になることでした。

 

両親と同居し、勤めに出る私の代わりに母が家事をする、算段だったらしい。

 

私は自分の人生が決められていくのが悲しかった。

 

それで、どんなことがあっても経済的に自立しようと心に決めたのでした。

 

経済的自立を手放して専業主婦になるなんて、恐ろしくてできませんでした。

 

それは、私にとって、自分の人生を自分で決められなくなることを意味していました。

 

 

4 自分の夢を叶えたかったが大学院受験失敗と就職浪人を経験

不本意ながら、教育学部に入った私は、教育を考えるのに園児から高校までの発達段階を見てみよう、どうせなら、教員免許も取ろうと考えました。

 

せっかく学ぶのに、中途半端はイヤだったのです。それで、幼稚園課程、小学校課程の授業も併せて取りました。

 

小学校の母校実習で、副免許取得だったために、受け入れ先の小学校長に嫌がられました。

 

確かに、迷惑な話だったのでしょうね。学校現場は忙しいのに、と。

 

小学校に勤める気はないんだろう? と露骨に言われました。

 

受け持っていただいた先生にはよくしていただきました。年配のベテランの先生でした。

 

私の、発達段階を見たいという思いをよく理解してくださいました。その先生とは、今も交流があります。

 

それで、幼稚園課程はあと教育実習に行くだけだったのですが、また、迷惑がられるかと思うと気が萎えてしまいました。

 

幼稚園課程にまで手を広げたため、小学校は二種免許になりました。

 

 

私自身、ものごころつく頃から、親子関係に息苦しさを感じてきました。

 

両親の、私に対する「こうあるべき」が強すぎて、それに抵抗して自分の人生を歩もうとしながら、

 

どこか、両親の期待通りにできない自分に後ろめたさを感じていました。

 

そういった、いわゆる「機能不全家族」で育った影響で、私自身の人間関係のあり方にも影響していることに、薄々気づいていました。

 

何とかしたいという思いで、大学生時代はいろいろな心理学の本を読みあさりました。



3回生ぐらいで、私はもう少し学びたくなりました。

 

大学生になってからは学費以外は自分の小遣いなどはアルバイトで賄っていましたが、結局4年間で大学院2年間の学費として、50万円を貯めました。

 

国立大学は入学金10万円、学費が年間18万円の時代だったので、大学院もそれだけあったら入学金・授業料とも大丈夫だったのです。

 

自分の夢を叶えるのに自分で何とかしないと、という思いでした。

 

とても両親は大学院に行かせてはくれまい…。

 

 

その当時、私は古今和歌集が好きでした。卒論も古今和歌集の枕詞・序詞についてでした。

 

教育学部で大学院に行きたいとは思いませんでした。

 

当時の教員養成の教育学部は、文学部の二番煎じのような感じで、教育学部としての独自性に欠けていた。

 

だから、授業の方法論的な講義はひとつもなく、専ら教材研究に偏っていたように思います。

 

古今和歌集の研究でこの人、と思える教授に手紙を書き、4回生になってからは神戸まで週1回、その教授の授業を受けに神戸まで通いました。

 

教育学部から文学部の大学院を受けるなんて、無謀だったと思います。

 

でも私は、努力すれば何とかなると思っていました。若かったですね。

 

4回生で教員採用試験も受けず、専ら大学院受験の準備をしていました。

 

結果はダメでした。ダメだったときのことも当然考えて然るべきだったのに、なんの手立ても打たなかったので、呆然として大学を卒業しました。



取りあえず、塾の講師を始めました。

 

塾は夕方から夜の仕事なので朝起きが遅くなる生活になってしまいました。

 

近くの幼稚園に通う子どもの声を布団の中で聞いているうちに、このままでは自分がダメになる気がしました。

 

「ちゃんと就職しよう」と思いました。

 

夏には教員採用試験を受け、無事合格しました。

 

9月からは臨時採用の講師を始めました。

 

 

5 公立高校就職/親から離れるため広島へ

1年遅れで、奈良県の公立高校への就職となりました。

 

6年勤めた後、このまま生まれた場所で人生を送るのは、あまりにも狭いような気になりました。

 

奈良を出たことがなかったので、別の土地で、別の人生を送ってみたくなったのだと思います。

 

それで、その頃知り合った人と生きていこうと思い、奈良を離れました。

 

教員の採用は県ごとなので、採用試験を受け直し、無事合格して、引き続き高校の教員となりました。

 

 

6 大学院進学と出産、育児に追われ、体調を崩す

広島での生活は、目まぐるしく始まりました。新しい土地、新しい職場、新しい人間関係…。

 

その緊張が少し取れた秋ぐらいから、何か、勝手が違う…と感じ始めていました。

 

そう、奈良では当たり前にあった日常の「お寺行事」がまるでないのでした。

 

私は初めて、「無くしたもの」に気づきました。

 

そんな、自分にとって当たり前すぎて、なんとも感じていなかったものが、ひたすら恋しかった。

 

そんなふうに淋しい思いが高じたのか体調を崩し、原因不明の微熱が出るようになりました。

 

子どももほしいのに、このままでは難しい…。

 

環境を変えたい…。けれど、何をどうすればいいのだろう? 

 

私は、リカレント教育(教員の長期研修)として、大学院への進学を決意しました。

 

 

ちょっと欲張りだった、ですね。仕事も家庭生活も充実させたい、と。

 

頑張れば、何とかなる!と思っていました。

 

大学院在学中に、妊娠・出産し、育児休暇を挟んだものですから、大学院の在籍は、現職教員としては全国初の3年となりました。

 

子どもを産んでから、3ヶ月は家事・育児のみの生活でした。

 

ですが、「大学院2年目」の生活は、現場に復帰して通常の仕事をこなしながら、修士論文を書かなければいけなくなる、というメニューでした。

 

私はそこに育児が加わるので、早めに準備しておかないと、と思いました。

 

それで、育児休業中に、少しずつ、論文執筆の準備を始めました。

 

それでも、間に合わずに育休明けの年のお正月を返上し、論文執筆にいそしんでいた私は、体調が悪くなって、救急車で運ばれる羽目になりました。

 

 

7 結婚の破局/無理がたたり癌になる

あれやこれや…欲張りすぎだった私には、あまり心の余裕が持てませんでした。

 

もともとお互い、仕事に長時間を割いていたから、ゆったりとした時間が持ちにくかった。

 

それに、「親子関係」問題を解決できていなかった私は、無意識とはいえ、相手に多大な要求をしてしまった、と思います。

 

二人でいるのに、淋しさを感じるようになってしまいました。

 

 

子どもを抱えてひとり奮闘する毎日は、5時間睡眠で成り立っていました。

 

朝5時に起きて洗濯機を回し、朝ご飯の準備をして、洗濯物を干す。それから子どもを起こす。

 

6時に子どもを起こし、食べさせて、出掛ける準備をして、6時45分に家を出る。

 

7時半に職場近くの保育園に預け、7時半過ぎに職場に入って授業準備。

 

延長保育を掛けると子どもの心が不安定になってしまったので、5時半のお迎えにして、後は「持ち帰りの仕事」。

 

 

小学校に入ると、今度は、「留守家庭子ども会」に預けても子どもの帰宅時間は5時で、私が帰るまでの「空白の1時間半〜2時間」が気がかりでした。

 

子どもがいつ熱を出すか分からないので、常に「自習課題」は用意していて、同僚に分かるようにクラス別に準備していました。

 

2歳で「小児喘息」との診断を受けたので、季節の変わり目ごとにゼイゼイいうことが多く、夜中に市民病院に駆け込むこともありました。

 

 

そんな日々を過ごしているうち、甲状腺に癌が見つかりました。

 

母からは「早く手術して(切り取って)しまったら?」と勧められました。

 

でも、「全摘(出)」になるので、そうすると「甲状腺ホルモン」を補うために薬をずっと飲み続けないといけなくなります。

 

更年期に入り掛かった40代でしたから、体調の変調が不安でした。

 

それに「こんな大きさの腫瘍は、すぐに出来たものではないですよ。10年ぐらい掛けて出来たものです。」

 

と言われ、出産後、5時間睡眠を10年間続けてきたことに思い至りました。

 

…そうか、私、無理したんだね…。

 

癌も、そう思うとなんだか「戦友」みたいで、嫌だから「切って捨て」て、無かったことにするのはためらわれました。

 

「これも私の一部」と思うと、すぐさま悪さをしないなら、「経過観察」で共存する選択をしました。



8 友達もたくさんいて、活発だった子が不登校になる

思い返せば、入学後から何かと小さなトラブルはありました。

 

子どもは中学校にあまりなじんでいるとは思えなかった。

 

不安を抱えたまま、でも、私も中学生の親は初めてだったので、「こんなものかな?」「こんなものかもしれない」と自問自答しながら、日々の忙しさにかまけていました。

 

そして、ついに学校に行かなくなる日がやってきました。

 

まさか、と思いました。

 

小さな時から活発な子で、外遊びが好きで、友だちもたくさんいて、…そんな、部屋に引きこもるなんて…!



私は自分の経験則として、学校を休んで3日になる子には、必ず家庭訪問をしていました。

 

早めに動くと、不登校にならないですむ場合があるからです。

 

だから、子どもの担任の先生には早くに動いてほしかった。

 

けれど、子どもの担任の判断は「1週間様子を、見ましょう。」でした。

 

私は、家庭訪問に来てくださいと言えなかった。

 

私より若い先生だったので、同業者として遠慮した、と思います。そして、後々とても後悔しました。



「どうするつもりなの?」「何、考えてる?」…つい、私は子どもの問うてしまっていました。

 

それは、不安に駆られてのことでした。

 

でもそうすることが、余計に子どもを追い詰めました。

 

子どもは自分の部屋のドアに物を置いてバリケードにして、閉じ籠もりました。



それまでクラス担任として、不登校生徒には私なりに精一杯ケアをしてきたつもりでしたが、そのお母さんをケアするという発想はなかったです。(今から思うと申し訳ない…)

 

不登校生の母となって初めて、こんなに苦しいのかと知りました。

 

自分の子育てが間違っていたのか、という不安。自分自身の存在が全否定されるような、恐怖。

 

私の場合は、子どもがバリケードを作って自分の部屋に入れなくしたので、それを子どもの「拒否」と受け取って、私は生きている価値があるんだろうか、とまで思いました。

 

よく考えると、一番不安なのは本人なのです。

 

けれど、親の私が自分の不安をうまく処理できずに、つい、本人に向かって問うてしまうのです。

 

家に帰ってきたときの第一声をどんな言葉にするか、どんな風なトーンにするか、毎日が修行のようでした。

 

それによって、子どもが部屋から出てきたり出てこなかったりするからです。

 

なかなかうまくいかず、通勤の車の中で、音楽やラジオを掛けながら、よく泣きました。

 

その頃の私を支えてくれたのは、同じように子どもの不登校で悩んできた「先輩お母さん」でした。

 

何度も何度も失敗して、そして、家の外で、自分の気持ちを吐き出すことをして、やっと「子どもに掛けるべき言葉は何か」をつかみました。

 

3ヶ月経っていました。



9 子どもと真剣に向き合い不登校を克服

子どもと話ができるようになっても、つい気を許すと「失敗」して、まさしく「一進一退」という感じでした。

 

全ては手探りで、でも、これまで子どもと向き合ってこなかったことを思い知らされました。

 

世間の常識を全部外して、「子どもがどんなふうに生きていきたいか」に焦点を絞りました。

 

高校進学も「しなければならない」とは言いませんでした。

 

「義務教育ではないからね。別に、高校行かなくてもいいよ。ただ、何らかの仕事をして生きていかなければならない。何をして生きていく?」

 

とだけ問いました。

 

そういう形で、自立を目指してどんな選択をしていくか、を自分で選ばせました。



子どもは、全寮制の高校を選びました。

 

高校で家から出すのかと思うと、辛かった。

 

けれど、運動不足を解消するのに、人目を気にして夜走っている姿を見ると、生活の場所を変えた方がいいのかもしれないと思いました。

 

寮生活が続かなければ、また、学校を探さないといけないと半ば覚悟しながらの、始まりでした。

 

けれどなんとか、学校生活にも学校の先生にも馴染み、友人もたくさん出来て、クラブにも精出す生活が送れました。

 

私は、というと、子どもが家を出た後「空の巣症候群」状態も経験しました。

 

やっぱり淋しかったですが、いろんな「資格を取ること」で気を紛らし、私も新しい生活に馴染んでいきました。

 

 

10 父の癌闘病(3年3ヶ月)/突然の父の死去で心身の不調が始まる

子どもが高校生となってしばらく経った頃、今度は父の癌が見つかりました。

 

病知らずの人だったので、驚きました。

 

歯肉癌で、外科手術がいるということで、病院を探したり、主治医の説明を聞いたリするのに、新幹線で通いました。

 

父は3年3ヶ月、手術と抗癌剤治療を繰り返しました。

 

最先端医療として、京都大学の原子炉で「中性子」を投射することまでやったのですが、癌の進行が止まりませんでした。

 

さすがに「抗癌剤治療は辛いから、もうやめたい」と言いました。

 

自宅で緩和ケアを受けることになりました。



自宅での緩和ケアは父に合っていたようでした。

 

痛がったりもしませんでした。

 

それで、「緩和ケア」に入っているということを私は一時忘れました。

 

父が亡くなる、ということを認めたくなかったのかもしれません。

 

その日の前日、父は朝ご飯の準備もして、食事を済ませ、そして、眠りにつきました。

 

そして、明け方、亡くなりました。

 

 

私は、死に目に会えなかったことを後悔し、お葬式が終わった1ヶ月後のお盆休みに起き上がれなくなりました。

 

その辺りから、自分でも気がつかないままに心身の不調が始まりました。

 

秋口に入り、電話で母が背骨を圧迫骨折して、動けなくなっていることを知りました。

 

奈良まで様子を見に帰りたかったのですが、9月は就職担当であるため、身動きが取れませんでした。

 

気になりながら10月末を迎え、自分の不調をおして、やっと母の様子を見に帰りました。

 

母はコルセットをして、やっと、生活していました。

 

 

私はこれまでもずっと、370㎞離れた場所で暮らしても、両親が気がかりだったことを思いました。

 

あれやこれや、思うことはあるけれど、やっぱり見捨てられない、と思いました。

 

けれど、この母と一緒にいると傷つく私がいました。

 

私はまだ、両親との「境界線」をうまく引けずにいました。

 

 

11 カウンセリングを受けて不調を改善

私はこれまで、きちんと継続してカウンセリングを受けたことがありませんでした。

 

けれど、これまでの親へのこだわり、自分へのこだわり、そんなものがごちゃごちゃになっている状態を、きちんと整理したくなりました。

 

それで、3ヶ月間、週1回のカウンセリングを受けることにしました。

 

そのカウンセラーさんは、ご自分のカウンセリングの方法は「TAゲシュタルト」だと言われました。

 

「TA」は交流分析だと知っていましたが、「ゲシュタルト」は初めて聞きました。

 

そのカウンセラーさんからのカウンセリングを終えた後、私は「ゲシュタルトってなに?」と思い、「ゲシュタルト療法」を調べ始めました。

 

これは個人のカウンセリングではなく、グループ・カウンセリング(グループ・セッション)の形を取るものでした。

 

 

12 ゲシュタルト療法との出会いによりカウンセラーになりたいという思いが高まる

「ゲシュタルト療法」の「プレ・トレーニング」が東京で行われていました。

 

私は、その、半年にわたる、5回10日間の「プレ・トレーニング」に参加しました。

 

身体に現れる症状や無意識の仕草・動きなどに着目し、それとの対話(=自己内対話)を通して、「ああ、そうだったんだ!」という「気づき」を得て、「分裂していた自己」の統合を図る、という「ゲシュタルト療法」に魅了されました。

 

「ああ、そうだったんだ!」という気づきは強烈で、いろんなものが一気につながる、という体験は爽快でした。

 

解決の速さ、押しつけらるのではない自分の中から答えが出る明確さ、それらはファシリテーターの「有りよう」に依って引き出されていました。

 

ゲシュタルト療法と出会い、父や母、きょうだい、子どもとの関係に、一定の境界線を引き、適切な距離を取ることの必要性を知りました。

 

別の人間で有る限り、どんな場合も適切な「距離」が必要であること、そのために「境界線」を引く必要があることが納得できました。

 

自分の境界線の内側、つまり、私の「生存スペース」は、私が当然持っていていいものなのだと、心から納得できるようになりました。

 

そうやって、現在、自分自身の親子関係にほぼ整理がつけられた状態となり、親子関係で悩んでおられる方に何かサポートできないかと思うようになりました。



13 教員生活31年の経験を活かしカウンセリングルームを開始

父が亡くなって、ひとり暮らしは辛い、と母は言いました。

 

私は、定年まで教員を続けるつもりでいました。

 

さて、その後、老後をどこで過ごすか、と考えたときに、やはり奈良に帰りたい気がしていました。

 

母と暮らす選択は、これまで私にはなかったものだった。

 

ですが、「嫌だ、嫌だ」と避けてきて、それでもやはり気がかりだったのなら、今度、引き受けたら私の人生、どんなふうになるだろう? そう思いました。

 

やってみる気になりました。



これまでの私の人生は、決して「順風満帆」ではない。

 

悩みながら、ここまで歩んできた。

 

あれこれつまずいたからこそ、悩んでいる人の気持ちが分かる。

 

そして悩んでいる人の役に立つことができるなら、カウンセラーという仕事がしたい。

 

あれこれつまずいたからこそ分かったことがあって、それが悩んでいる人の役に立つなら「まあ…つまずいたことも良かった」と思える気がしました。

 

辛いときに何とか自分を立て直す方法、ダメだと思う自分を受け入れる方法を伝えながら、ひとりで悩むことはないよ、と辛いさなかにいる人に、寄り添いたい私がいます。

 

いいことばかりではないかもしれないけど、ちょっとした「いいこと」を見つけて喜べる、前向きな心を一緒に育んでいきたいと思います。



14 不登校で悩むお母さんとお子さん、教員へのカウンセリングで支持を得ています

いろんな方が相談に来られますが、このところ、不登校で悩むお母さんとお子さん、教員の方がカウンセリングに来られることが増えてきました。

 

我が子は、高校はクラブ活動を楽しみながら無事卒業し、今は大学生となって、サークル活動とバイトにいそしんでいます。(勉強の方は…わかりません。(笑)

 

子どもと母親は、いい意味でも悪い意味でも、「キョリが近い」ので、お母さんをケアしたりサポートすることで、問題の解決は早いのではないか、と思っています。

 

どんな「解決」に落ち着くかは、それぞれ違ってくるとは思うのですが。

 

まずは、「なんとかしなきゃ!」「これからどうなっていくの?」と張り詰めた思いで、踏んばって、その日その日を過ごしていらっしゃるお母さんに、日々感じていらっしゃることを聴かせていただきながら、心のケアをさせていただけたら、と思っています。

 

また、必要な方には、高校、大学等への進路相談にも乗らせていただいています。



学校現場に長くいて、しかも、我が子の不登校も体験して…という経験から、ご本人の抱えられている問題は必ずしも私が体験したことと同じでないにしても、かなりの部分がよく理解できます。

 

それが、クライエントさんにとっては何よりの安心につながるようです。

 

そして、あなたの場合は、こんな「落とし穴」にはまりかけている、ということをお伝えすることで、何を目指していけばいいのかがつかみやすくなるようです。

 

ご自分の状態を理解し、そして、どうやって「落とし穴」から浮上するのかを、ご自身に合った方法で、ご自身に合ったペースで、一緒に探っていく作業をしていきます。

 

無理なく自分の進むべき方向が見えてきます。



  ※      ※      ※

 

<教員をはじめとする「対人援助職」の方へ>

 

子どもの不登校が始まったのは、夏休み明け。その時、私は高3の担任でした。

 

プライベートで大きな問題を抱えつつも、生徒たちの、秋から始まる推薦入試の準備(面接指導や小論文指導など)に忙しくて、それで私自身救われたところもあります。

 

考えてもどうしようもないことがぐるぐる頭を巡って、気が変になりそうな時に、「やらなければならない仕事」があるというのは、ありがたかったです。

 

それにしても、辛いさなかには友人には打ち明けても、職場の同僚には言えなかったですね。

 

単純に、どう思われるのか、怖くて。

 

管理職にも、次年度の校内人事が確定してから、必要に迫られて、やっと話しました。

 

いろんな仕事を外されたくなかったのです。

 

それは私の取り越し苦労だったかもしれません。

 

しかし、やはり職場によってプライベートな困り事を出せるか出せないかは違ってくるように思います。



退職にあたって、連絡を取ったひとりの元教頭の言葉は意外でした。

 

「僕も管理職になって初めて知ったんだけど、教員の子どもの不登校って、けっこう多いんですよ。

 

守秘義務があるから、そんな話は(あなたと)できなかったですけどね。」

 

広島と奈良とでは、また少し状況が違うかもしれませんが。

 

スクールカウンセラーが配属されている小・中学校では、児童・生徒の相談枠が空いている時間に、教職員が少しプライベートな相談にカウンセラー室を訪れるケースもあると聞きます。

 

けれどスクールカウンセラーは校長に業務報告義務があることから、相談したくても相談できない方もいらっしゃるのでは、と思ったりします。

 

教員をはじめ「対人援助職」に携わっていらっしゃる方、仕事として要求されることが年々増えているにもかかわらず、適正な人員配置がなされず、オーバーワークな日々ですよね?

 

少し、ご自身をケアするサポートをさせていただけたら、と思っています。



  ※      ※      ※

 

<ここまで読んでくださった方に>

 

悩みが深いと、自分の立っている足元が崩れるような不安定さを感じたり、ぐるぐる、ぐるぐる、考えが巡るばかり。

 

私はどうなってしまったんだろう、これからどうなるんだろうと、ホント 一挙に自分に対する不安が押し寄せてきて。

 

眠れない日が続いたりします。



眠れない夜は、とても長く感じます。

 

今、辛いばかりでしょうが、でも、大丈夫。

 

明けない夜はないのです。



こんがらがった毛糸は丁寧にたどって、ほぐして、要らない結び目はほどきましょう。

 

時間が経って固くなってしまった結び目も、きっと解く手立てがあります。

 

あなたの望む色は、どんな色でしたか?

 

そして、あなたはどんなふうな形で編んでいくことを望みますか?

 

自分の心を整えたら、あなただけのステキな作品を作っていけます。

 

大丈夫。勇気を持って、今の状態を変えようと決心したあなただから。

 

あなたが持つ輝きを見つけられます。


           
出身地

奈良県奈良市

誕生日 4月28日
資格

高等学校専修免許(国語)

 

中学校専修免許(国語)

 

小学校二種免許

 

HCSケア・カウンセラー(認定番号420337)

 

ナード・アロマアドバイザー(認定番号170532)

 

ナード・アロマインストラクターコース受講終了

 

CDA(認定番号142358)

 

保育士(登録番号 広島県−032016)

 

ゲシュタルト療法プレトレーニング終了(60時間)

 

ゲシュタルト療法ベーシックトレーニングコース終了(150時間)

 

ゲシュタルト療法アドバンストレーニングコース終了(150時間)

 

インナーチャイルドカードセラピスト(養成講座終了)

所属団体日本キャリア開発協会

日本ゲシュタルト療法学会

ナード・ジャパン(Natural Aromatherapy Reseach and Development)
趣味 花の写真を撮ること
白ワインを楽しみながら、本を読んだり、人と話をすること
好きな音楽 ボサノバ
好きな言葉 「Tomorrow is Another day」(明日はまた別の、違う日)
休日の過ごし方 仏像を見たり、美術館に行ったり。ぶらぶら街歩き。

カウンセリングルーム 沙羅Sara

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。

明けない夜はありません。

電話番号:090-7594-0428

所在地 : 生駒市元町2-4-20 

営業時間:10:00〜19:00

定休日 :不定休

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