折々のことば。2024年5月20日のシドニー・スミスの言葉。
「このことも、いつか思い出にできるかな」 シドニー・スミス
鷲田清一の解説。
パパも一緒だったピクニック、激しい嵐の夜、この街に向かう高速道路の旅……。
ママと「ぼく」は新しい家のベッドで「ねえ、おぼえてる?」と訊(き)きあう。
二人で迎えた最初の朝、バスが通る音が聞こえ、向かいのパン屋さんから匂いが漂う。
思い出は一人で抱くのではなく誰かともちあうもの。
つくるものではなくなるもの。
絵本『ねえ、おぼえてる?』(原田勝訳)から。
「いい思い出を作っていきましょう!」「いい思い出となるように…」
何かの行事のたびに、そう挨拶されるのが嫌だった。
まだ始まってもいないのに、もう終わった後のことを考えるの? と。
「思い出」のことを持ち出されると、途端にもう私は「終わったあと」にすっ飛んでしまっていて。
未来のいつかのときに。ひとり取り残された自分を感じて、淋しかった。
そんな言葉を聞いても。
なんでもない風の周囲に溶け込めなかった。
もうそれだけで気後れして、今この場でも私は取り残されていることを感じた。
いつもいつも、淋しかった。
それでも。「淋しい」と口にすることはなかったので。
ただただ、ぼんやりとして。見るからに楽しんでない「変な子」だった。
その場に合わせる「ノリ」を。私は持ち合わせていなかった。
ひとり浮いた感じの。私。
周囲に申し訳ないとは思っても。自分をどうすることもできなくて。
私自身も。そんな私を持て余していて。
いたたまれなかった。
「私はここに、居ていいのかしら?」がその後、私の通奏低音となった。
昨日の午後。
今月23日・24日に行う「夢みる小学校」の試写会を、教え子のひとりと行なって。
「夢みる小学校・完結編」を初めて見た。
「完結編」は、「きのくに子どもの村学園」の小学校を卒業して中学生になった子どもたちのインタビューが入っていたり、した。
その中学校も卒業して、今度は「外部」の県立高校に進学するときの子どもたちのインタビューも。
観ていて、やっぱり涙が出た。
「きのくに子どもの村学園」の(「先生」ではない)「大人」の言葉も。
昨年末に見た時よりも、もっとたくさん私の中に入ってきた。
子どもが。
安心して、そこに居られるように、「待つ」のだと。
授業中、「大人」の膝の上に登ってきたり、膝の上で座ったままでいたり。
それを全く拒否しない。
何か。それはその子の必要があって、そうしてるんだと、認める。
その子の必要って、何か不安を解消したい、のかもしれない。
それを拒否したりしないで認めてやっていたら、そのうちその子の気持ちも落ち着くことを知ってるんだなあと。
その心の余裕を「大人」は持って、子どもに接していることがわかる。
そうね。まずは子どもに接する大人の心の余裕が必要だ。
大人のペースではなくて、その子その子のペースを保障するには。大人が、心穏やかでないと。
私の子育ては。
いつもいつも「早く、早く」と追い立てて。
子どもは私のあとをいつも小走りについてきていた。
それに疲れて、もう走らなくなって、「不登校」だったんだなあと。
子どもが不登校になってから気づいたこと。
私も追い立てられるのが嫌だったハズなのに。
いつの間にか、同じことをする側になっていた。
…子育てのことを思い出すと、いつも胸が痛む。
自分のことも、子どものことも、見えてなかった私が、そこにいるから。
だから、この映画、まずは観てください。
直後は自分の日常を振り返ってしまって、嫌になってしまうかもしれないけど。
でもそこからしか何も始まらない、気がする。
映画の中の、子どもたちの真剣な眼差しや、笑顔や。
それを見ていると、子どもはもっとたくさんのことができて。
子ども自身で育っていく力があるんだ! ということがわかる。
「思い出は一人で抱くのではなく誰かともちあうもの。つくるものではなくなるもの。」
そうね。共に過ごした時間が。その後の自分を支えてくれるものになるなら。
それ以上のものはない。
画像は、2022年4月5日に撮った、東大寺の桜。
枝が、空に向かって伸びやかであるのが。子どもたちが育っていくのも、こんなふうであってほしいと思えて。