今春、ゲシュタルト仲間であるともこさんからの紹介で、「Zoomでサンガ」という集いに参加するようになりました。
それは、二週間に一度ぐらいのペースで、ほんの40分間の穏やかな時間。
ティク・ナット・ハン師(ヴェトナム生まれの禅僧)の『仏陀の<呼吸>の瞑想』(野草社)の一節を、誰かが読み、そのあと、感じたことを各々がシェアする時間。
私もそのテキストを手にしてみました。
「いったん止まって、息をしましょう」と題された「序」(?)の部分に、次のような文章がありました。
“私が住むプラムヴィレッジには、蓮池があります。蓮は泥なしには育ちません。大理石に蓮を植えるわけにはいかないのです。蓮の花が開くためにはどうしても泥が必要であり、理解と思いやりが生まれるためには苦しみが欠かせません。苦しみを抱擁し深く観つめるとき、私たちはそこから多くの学びを得ることができます。
仏教では、「ブッダに帰依する(よりどころとする)」という表現をよく使います。このブッダとは、どこか遠いところにいる人物のことではなく、私たちの内なる気づきと集中と洞察のエネルギーのことです。
私たちは思いやりの種を心のなかに持っています。だれでもときには理解や共感を発揮できるときがありますが、そのエネルギーは自分自身のなかから生まれます。これが内なるブッダのエネルギーです。ブッダはつねにあなたとともにあり、望めばいつでも触れられるところにいるのです。
いつでも、どこにいても、ブッダに触れられる方法のひとつ、それが呼吸です。”(pp.18-19)
蓮の花が泥なしに生まれないように、苦しみなしには、理解と思いやりが生まれない…。
まず、その一節が心に染みました。とはいえ、余りに苦しみが大きいとき、人はどうやってそれに耐えるのか?