たとえば、Aさんの場合。
長年の自分の苦しい状況を吐き出して、
ほっとして、よく眠れるようにもなった。
けれど、今の状況を変える、具体的なあれこれには、
どうも気が乗らない。
それで、取りかからずに次のカウンセリングに来たら、
何か、カウンセラーの態度が冷たい、と思う。
あ、そう言えば、「報告メール」もしなかった。
それを怒っているようにも思えてくる。
なんだかカウンセラーが怖くなってきた…
自分は親による「傷つき」を持っているのに、
なんでこのカウンセラーはそれを配慮してくれないんだ?
こうやって、どんどんカウンセラーへの不信感が
大きくなっていきます。
しかし、その奥底にあるのは「変化への恐怖」なのです。
「現実」を変えるためには「行動」を起こさないといけない。
その「行動」は、今までやったことのないことで、
上手くできるかどうか、不安になる。
いや、どうも上手くできない気になってくる。
その気持ちを正直に言って、「どうしましょう?」
となるのは、まだ、新しい行動を始める気になっている時。
しかし、自分の、その「恐怖心」とすら向き合いたくない、時には、
何か、自分が行動を起こさない「理由」が欲しくなる。
それが「カウンセラーへの不信感」。
自分の「傷つき」を話したのに、
なぜ、それを配慮してくれないんだ?
は、「配慮してくれて当然」という甘え、なんですが、
そこに逃げ込むことで、
「変化するための一歩を踏み出す」ことから、
目をそらしているのです。
「辛い現実」は、何か、これまでと違った行動を起こさないと、
何も変わらない。
「話す」は「放つ」に通じるので(語源的に)、
話せた、ということは、自分の開放感をもたらしますが、
しかし、それは、スタート地点に立てた、というだけなのです。
それで、実際に、行動を起こさないと、何も始まらない。
その「始めること」に抵抗を覚えるのは、
「変化を怖れる気持ち」からです。
不思議でしょう? なぜ、「変化を怖れる」のか。
理不尽な「現実」でも、慣れ親しんだ「安心感」があります。
辛いけど、それでも「変化」することへの不安よりマシだと、
無意識にそちらを選んでしまうことがあるのです。
そうならないためには、まずは、自分が「何がどうなること」を望んでいたのか、
カウンセリングルームを訪れたときの、最初の気持ちを、
どこかに書き留めておくことが有効でしょう。
それから、「被害者の立場」に立たないこと。
長らく「理不尽」な状況にあった、というのは気の毒だとは思いますが、
そんな状況を継続することに、自分も加担してきたのだ、と自覚すること。
子どもならいざ知らず、飛び出すなり何なりの行動を取れたのに、
そうしなかった自分にも、責任の一端はある、と
「自分の責任」を引き受けること。
そこからしか、「変化を怖れる気持ち」には
立ち向かえない気がします。
いえ、「変化を怖れる気持ち」があってもいいんです。
そこから目をそらさないで、
「あ、自分は、変化するのが怖いんだな」と認めさえすれば。
正直に「行動するのが怖いんです」「何か、動けないんです」
とおっしゃってくださったら、
そこから始められます。
どんな行動だったら、無理なく始められるのか、
ご自分に合った「行動計画」を一緒に立てていきましょう。