2021年のお正月も終わった。
まだ「松の内」(関西では15日)ではあるけれど。
今日は七日。「七草粥」の日だ。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。
あ、言えた!
それから、おもむろに『深呼吸の必要』を開く。
今朝は…やっぱり「初詣」。
「初詣」 長田弘
冷たい風がゆっくりと鐘の音をめぐらして
いる。遠く、電車の走ってゆく音が聴こえる。
家々のあいだを折れてゆく道に、親しげな人
の声がひびく。もう夜半をすぎたのに、あた
りの気配のどこかに、まだ日暮れてまもない
ような騒がしさがある。くろぐろとした屋根
がつづくむこうに、夜の街の空が明るい。す
べて遠くのものが近くかんじられる。
おおきな闇をつくっているおおきな夜の樹
の下をとおってゆく。篝り火の焚かれたちい
さな境内につづく石段を上る。手に破魔矢を
もったジーンズの娘と若者が、石段の途中に
坐って、星を算えている。初詣のたのしみは、
真夜中の自由。絵馬。土鈴。護符。木の枝に
きっちり畳んでむすばれたおみくじ。ごくさ
さやかなもの、むなしいけれど、むなしさに
あたいするだけのいくらかの、ひそかな希望
を質すための。
「質す」は、確か、「ただす」と読むんだった、よね?
と、思わず調べてしまった。
「ただす」と入れて、変換候補に上がって来なかった、から。
うん。そうだ。「ただす」だった。
いいか、悪いか、その是非を問うのが「質す」だった。
(今、もう一回、「ただす」と入れたら、今度は変換候補に上がってきた!
うーん…学習したんだ、AIくん。)
夜中の初詣。うーん、もう何年行ってないだろう?
奈良に帰ってきたばかりの頃は。いそいそと出掛けた、気がする。母を連れて。
まあ、まだ母も70代、だったし。
でも! 三ヶ日過ぎて、どこにもお参りに行ってない年は初めて。
まあ、コロナ感染者が急増しているから。
まあ、私は毎朝、観自在菩薩さまに般若心経を唱えてはいるけれど。
…そうね。初詣の楽しみは真夜中の自由、であったかもしれない。
親の家を出て、自分で好きに時間を組めるようになって、真夜中にだって移動したりもするようになって。
真夜中に起きて動いていることのワクワク感は、もう感じなくなってしまった、けど。
最初の頃は、もうそれだけで嬉しかったのを覚えている。
絵馬。土鈴。護符。おみくじ。
ごくささやかな。
「むなしいけれど、むなしさにあたいするだけのいくらかの、ひそかな希望を質すための。」
ってなんだか。
ごくささやかに、新年いいことがありますように、とそれほども大きな希望を抱かず、
百円、二百円でおみくじを引く、そのささやかさを愛おしむ、詩人の視線が暖かい。
ああ、ひとまず、何より。
コロナが終息しますように。
松の内に、往駒大社(生駒神社の正式名称)に行ってこようか、と思う。
画像は、年の瀬に訪れた入江泰吉旧居。
まだ、黄色く色づいた葉が残っていました。