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  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
 

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
詩の世界
2017/08/31
「ふたりの間の真実」〜池下和彦の詩「川」〜  

知人から渡されて、今手元に1冊の詩集があります。

童話屋から2006年に出版されている『母の詩集』。2012年に第2刷の発行です。

池下和彦という方の、「認知症の母を詠った詩集」と本の帯にあります。

「アルツハイマー型老年痴呆」と診断されたところから、最初の詩は始まります。



      「約束違反」 池下和彦

                平成三年秋、母はアルツハイマー老年痴呆と診断された

 

  その医者は

  母を

  アルツハイマー型老年痴呆だという

  今の医学ではなおらない病気だという

  なおらないから老年痴呆なのだと駄目を押す

  つける薬もないという

  のんでも気やすめなのだと駄目を押す

  そんなに駄目を押すこともないだろうに

  脳が縮んで

  しまいには消えてしまうのだという

  からだが残って

  脳が先に消えてしまうだなんて

  そんなの約束違反じゃないか

続き
人とのつながり
2017/08/29
「9月1日に向けて」  
一昨日、8月27日の毎日新聞の「医療・福祉」欄に「こころの天気図」と題された月1回のコラムで、「9月1日に向けて」というタイトルの記事が掲載されているのを見つけました。
東京大学教授で精神科医の佐々木司さんの文章です。

「もうすぐ8月も終わる。子どもたちには夏休みの終わりと登校再開の時期となるが、同時に増えるのが自殺である。」という書き出しで、「18歳以下の自殺者の1972〜2013年の合計(約1万8000人)を日付別に内閣府がまとめたグラフ」を提示されていました。
それによると、40〜60人程度の日が多い中、9月1日は131人、翌日の2日は94人、前日の8月31日は92人で、他の時期に比べ明らかに多い、というのです。
以下、佐々木さんの文章を引用します。

「大人より少ないとはいえ、18歳以下の自殺は年間数百人に達する。小学生が数人〜10人前後、中学生が50〜100人前後、高校生は200〜250人前後で、年齢が上がるほど増える。日本では10代と20代の死因の1位が自殺で、子どもの自殺防止は国全体の大きな課題だ。」

「10代と20代の死因の1位が自殺」だなんて。こころ痛みます。
…でも、私自身、思い返してみると、そんなに楽しく学校に通っていたかというと、そんなことはない。
時には重い身体を引きずって行っていた…記憶もあります。
何が原因か、など、そんなはっきり答えられるほどのことはなくても、何だか居心地よくないなあ…つらいなあ、というぼんやりとしたものを感じながら。

記事では「学校やクラスは子どもたちの生活の『ほぼ全て』と言っても過言ではない。…休むことも許されない。少なくとも、子どもたちはそう考えがちだ。」として、 「家族として心配なら、死にたい気持ちがどれくらい強いか子どもに思い切って聞いてみるといい。」という提案をしていました。
「NHKはスマートフォンで子どもも参加できる企画を計画しているようだ。」として、URLも記載されていました。(https://www.nhk.or.jp/heart-net/831yoru)

2年ほど前に、どこかの図書館が発信したメッセージが話題を呼んだことがありました。
改めて調べてみると、2015年8月26日に鎌倉市図書館がツイッターで発信したメッセージでした。

「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。」

2万人が拡散した、とあります。

確かに。死ぬほど思いつめている子には、救いの言葉かもしれません。
選択肢がない、と思い詰めるのですから。
ここに居ていいよ、というメッセージは温かい。

私も何か出来ないだろうか…。
私も9月1日、カウンセリングルームを解放して、居場所が作れたらいいな、と思います。
それをどんな風に、子どもたちに伝えられるか、ですが。
何かいい方法、ありませんか?

画像はこの前の土曜日に訪れた「ギャラリーカフェTanaka」のトイレ。上部が、中庭が見えるガラス窓になっていました。

人とのつながり
2017/08/28
「絵本の読み合いっこ」の集まり  
昨日は中津で「絵本の読み合いっこ」の会が催されるというので、どんな風なんだろうと興味を引かれて、出かけて行きました。
フェイスブックで「イベント告知」されていたものです。
主催はNPO法人「パブリック・スペース」。
場所は「パブリック・スペース」の拠点となる「ぱぶり家」。
地図で見る限り、阪急線の中津駅下車が一番近いようでしたが、私はちょっと家を出るのが遅くなって、乗り換え時間がなくて、御堂筋線で難波からそのまま中津まで行きました。

御堂筋線中津駅からは、西の方向で。
グーグルマップに住所を入れて、ナビさせました。
少し歩けば、ちょっと寂れた風の商店街。

そこで同じように場所を探している様子の子ども連れの女性二人と出会い。
「もしかして、ぱぶり家をお探しですか?」と。
結局は、ご近所のお店に方に場所を尋ねて教えていただきました。

まあ、こんな所に、という場所に「ぱぶり家」はありました!

中に入って。
二階に案内されて。

…実は私、一緒に杏樹(アンジー)を連れて行っていて。
昨日、一昨日と朝から家を出て、帰りが遅かったものだから、アンジー、ちょっと情緒不安で、ごはんを食べない。

一昨日は朝夕ともに食べなくて、昨日の朝も食べなくて。
「アンジー、今日は一緒にいるから、お食べ。心配しなくていいよ。…長い時間、ひとりでいるの、辛かった?」
そういうと、お昼前に朝ごはんを食べ始めた。

どうしよう? としばらく悩んだけれど、アンジーに今日は一緒にいる、と言った手前、一大決心して犬用抱っこバッグの中に入れて連れて行くことにした。

…といういきさつ。
首に抱っこバッグを掛けるから、だんだん重くなって大変なんだけど、ね。

犬連れなんて…不評を買うよね…と恐る恐るだったのですが、皆さん、寛大に受け入れていただきました。

持ち寄った絵本を、それぞれがその本を選んだ理由を含めて読み聞かせ、聞いた人も感想を述べ…という、ゆるーい雰囲気で会は進んで行きました。

「絵本は大人のためにあるのかも…」という発言もあったりして、そうそう、やっぱりそういう感覚の人が来てるんだ!とちょっと嬉しい気持ちがしました。

子どもの時にも楽しんで。そうして大人になってもう一度読み直した時に、ちょっと違う感覚も生まれる絵本。
そんな風に何度も新しく出会いがある。
おまけに「絵本が好き!」で出会えるつながりもあって…。

また、こんな会を催すことを考えていらっしゃるそうです。
絵本を集めようと寄贈を募っていらっしゃるそうで、でも、単に寄贈してくださいではなく、本を紹介する欄がある「カード」を用意されていて、その「カード」に読んだ人も一言感想を書き入れていく…そんなコミュニケーションを生み出す「仕掛け」を考えていらっしゃいました。




折りたたむことができて、コンパクトに本の裏表紙の内側に、出し入れ自由のポケットを付けて、その中に入れておくようです。


寄贈した人がここを訪れた時に、どんな風に読まれているのかを知ることができるように、とのことでした。
人とのつながりを生み出していこう、という主催者の意思を感じたことでした。

ボイスアート
2017/08/27
ともこさんの「ボイスアート即興ライブ」  
昨日は、ゲシュタルト仲間でありボイスアート仲間でもあるともこさんの「ボイスアート即興ライブ」に行ってきました。
奈良市今御門町(近鉄奈良駅下車、もちいどの商店街を抜けた、ならまちの一角)にある、「ギャラリーカフェTakeno」が会場です。

ボイスアート(R)とは、歌手まやはるこさんが考案された、「自分の息を聴くことで自分のありようを自分軸に戻し、声の表現を通して本来の自分に帰る」営みです。
阪神・淡路大震災に遭遇して歌えなくなり…といった壮絶なご体験から生まれました。
そのボイスアートの、即興ライブって? と、どんな時間になるのか楽しみにしていました。

受付が終わると、プログラムが渡され。


それから、「陽気な妖怪の森〜鈴ぎんとその仲間たち〜」という、今日のライブの「見取り図」的な小冊子も。


冊子を繰ると…


わあ、何これ? 「案内人 ガマグチガミ」が出てきて…なになに? 
「『妖怪の森』の裏ボス。福寿エネルギーがつまった‘黄金真珠’をくわえている」
ふう〜ん…そうなの。って、これって「がま口財布」がモデル? …そりゃあまあ、お財布にそんな福寿エネルギーがあると、お金がザクザク寄ってきそうでいいなあ。
そいつが案内のご口上。

「みなみなさま ようこそ
   なんか用かい?
   陽気な陽怪たち棲む
   妖怪の森へ よくおいでくださった

   わしは 千年前の昔からこの森に
   棲みついておるガマグチガミじゃ
   
   しばしこの森で 陽気な仲間たちと
   遊んでいかれるが よいのう

   それでは森の中へ 参ろうか…」

次のページには「鈴ぎん」がでてきて。
参加者は「通行手形」として「鈴ぎん」のBGMを練習するわけです。

「♬ 月夜にシャンシャン ごきげん鈴ぎん
       月夜にシャンシャン シャンシャンシャン」

一方で、ところどころ、ボイスアートのいくつかの発声法を織り交ぜて。
準備が終われば、「妖怪の森」に踏み入れます。


…ああ、こうやって異次元の世界に連れていって、その中でボイスアートの発声を行ないながら、ストーリーが進んでいく「参加型ワークショップ」だったんだ!

と、気づいた時には、引き込まれておりました。

 

妖怪たちも、ともこさんの生み出したパステル和アートで。

妖怪っていっても、怖くなくて、寂しい心に寄り添ってくれるようなものたちで。

全てが「ともこワールド」で構成されていました。

「妖怪の森」へのご案内の巻き物まであって…




妖怪たちも、ひとりずつ、描かれていて…。


楽しい時間でした。


母との暮らし
2017/08/26
母の手術入院  
お盆に庭仕事をしていて、ちょっとよろめいて手をついてしまった母は左手首骨折となってしまいました。
救急でお世話になった郡山の病院では、全身麻酔での手術と言われたのですが、その翌日にもう一度受診した生駒の病院では、局部麻酔での手術と言っていただいて、その方法で昨日手術が終わりました。
…いえ、全身麻酔と言われたから病院を変えたわけではないのです。
退院後にもリハビリは必要でしょうから、通うのに郡山は遠いから家の近くの病院で、と思っただけで。
だから「生駒の病院に行きますので、検査データと紹介状を書いてください」とお願いしたのでした。

毎朝計る血圧は、上が120台だったのに、病院に来た途端、140を超えて。
手術直前は170にもなって。…きっと、緊張したんだね。
朝から入院したものの、手術は夕方からになって。その間、ドキドキだったね。

手術は約1時間半で終わりました。左肩からの局部麻酔で手術中も意識があるけど、モニターに映る手術箇所は、看護婦さんに「気分が悪くなるから、見ないほうがいいよ」と言われたみたいで。
眉間にしわを寄せたような顔つきで、手術室から出て来ました。17時半過ぎ。

30分は安静にして、飲食はダメで、点滴はし続けたまま、トイレに行って、トイレ介助。
18時半には夕食が出て。
手術のために、朝8時以降に食べ物はダメで、10時以降は飲み物もダメだった母は、よく食べました。
19時を過ぎると外は暗くなって来て…「じゃあ、帰るね。杏樹(アンジー)の散歩に行かないと。」。

人がいないと淋しい母は、大部屋がいい、と言ったので、4人部屋。
…まあ、人の気配がするからいいね。

今日はずっと放ったらかしだったから、帰るとアンジーは大喜びで。
すぐさま散歩に行きました。
私もくたびれて、庭の水やりはパスしてしまったけど、今朝、結構な雨が降っています。…神さま、ありがとう。

母のいない朝。
私はちょっと、いつもと違う雰囲気を感じています。

…母と暮らして1年半。だんだんと、私も母といることに馴染んで来たんだろうか…。
生き方のスタイルは違っているから、母と暮らすにはあれこれ調整が必要だけど。
まあ、私も子どもの時とは違うからね。
私はそんな風にはしたくない、いや、しません、ときちんと線引きしているつもりではあるけど。

ちょうどいいタイミング、かもしれない。
私はどんな暮らしをひとりでして来たか、もう一度思い出すのに。

私は…無意識に、人の望むように合わせてしまう、ところがあるから。
こんな風にして欲しいんだろうな、を感じると、つい、そうしてあげたくなる。
時に、それが、自分の許容量を超えていることもあって、いきなり「しんどさ」を感じてずしんと落ち込む、ことが多かったから。…そう、ゲシュタルト療法に出会うまでは。

…そうそう。人との距離感を上手く取るのが苦手だった、ので。
今は…かなり改善された、と思っているんだけど、家族、はまだ、もう少し、難しい。

そう。厄介だよね、自分と付き合うのは。厄介だけど、丁寧に聴いていこう。
…そう思えた朝でした。

画像は、おねだりの時のように見上げるアンジー。…そうそう、この子との攻防もありました!

アロマオイル
2017/08/25
ナード・ジャパン インストラクターコースLesson3(1)〜精油の芳香性分類の基本〜  

昨日の、ナードジャパン認定校メディカアロマでのインストラクターコースの講義は、まるで化学の授業でした。

遠い昔に「化学 I」をひたすら頑張った(「化学II」の名目で「化学I」を学ばされたような…)文系生徒としては、なかなか手強い。

 

「精油に含まれる芳香分子は、炭化水素か、炭化水素の骨組みに官能基の付いた分子」と言われても…、「官能基」につまずくわけです。

官能基とは「有機化合物の分子内に存在し、化合物の特徴的な反応性の原因となるような原子又は原子団」ということですが、…すでに「官能基」という用語に、居心地の悪さを感じたりします。

…そもそも「用語」が落ち着いて私の中に入ってこない…というのを実感します。

 

「炭化水素か、炭水化物の骨組み」=「骨格」に3つあって「テルペン系」(=イソプレン骨格)「芳香族」(=ベンゼン環骨格)「脂肪族」(=鎖状骨格)。こちらを横軸に取ります。

(イソプレンはC5H12の分子式を持つもので、通常は単独で存在せず、2つ以上が結合して存在しているそうです。)

 

縦軸は「官能基」で、「官能基なし」から始まり、「水酸基−OH」「アルデヒド基−COH」「ケトン基−CO−」「カルボキシ基−COOH」「エーテル結合−O−」「エステル結合−COO–」と並びます。

これを組み合わせる訳です。

 

たとえば、テルペン系の「官能基なし」は「モノテルペン炭化水素類」と「セスキテルペン炭化水素類」の2つ。テルペン系の「水酸基」は「モノテルペンアルコール類」と「セスキテルペンアルコール類」と「ジテルペンアルコール類」の3つとなります。

 

モノ、ジ、トリ、テトラ…は1、2、3、4、だったと思うのですが、セスキって?と思いました。

(ラテン語と思い込んでいたのですが、ギリシャ語でした…。)

セスキは1.5なんだそうで、イソプレンは通常は単体では存在しないので、イソプレンが2つのテルペンをモノテルペン、3つのテルペンをセスキテルペン、4つのテルペンをジテルペンと言うそうです。

 

…疲れますよね。この辺でやめます。

 

まあ、そんな化学の授業の中にも、楽しい実習があって、昨日は「ローズの香りのボディミスト(ローション)を作りました。

 

・バスオイル(乳化剤)…10滴

・ローズ精油……………… 1滴

・ローズウォーター………50ml

 

ローズはホント高価で、1滴で260円! でも、とんでもなくいい香りに包まれます。

ローズ精油を生成するときに生まれるのが「ローズウォーター」で、その二つを組み合わせると、本来の「バラ」の香りに近いものが生まれます。

(アプリコット油で1%に希釈した「プレミアム ローズ」もありますが、それでも10mlが7800円もします。)

 

今日から入院する母に持たせようかな、と思います。

画像の一番左のボトルに、今回作ったボディミストが入っています。


人とのつながり
2017/08/24
同級生とのランチ  
昨日は、高校の同級生と、生駒でちょっと美味しいイタリアンのお店でランチをしました。
奈良に帰ってきているとの連絡を受け、お昼なら母を置いて出やすいかと思ってランチに誘ったのです。
ちょっと前に、裁判所にお勤めの彼に法律相談したことがあって、その時に「8月下旬に奈良に帰るから、また連絡する」と言われていたのでした。

お店を選ぶにあたって、私は生駒のイタリアンと高畑の友人の喫茶店のカレーとを選択肢に挙げたのですが、「カレーは毎日のように食べているのでパスタ屋にしましょう」との返答でした。

お昼にお店で待ち合わせて。
5年ぐらい前の同窓会以来でした。

ふう〜ん…、そんなにカレーを食べてるのか…と思っていたら、近鉄奈良駅近くのスリランカカレーのお店だそうで、そこでかすかに流れている音楽があって、それがハープシコード演奏だった、と。
もちろんCD。そのCDは、たまにふら〜っと、演奏者が店に立ち寄って、置いていくそうです。
…「まるで、富山の置き薬みたいだね。」と私。
気に入ってそのCDを買って帰ったそうで、そのうち、その店の人から、演奏会を案内されたそう。

で、今回の帰省で、そのハープシコードの生演奏を聴きに行ったそうな。
京都、笠置の山の方に。

演奏会前に、1時間の散歩の時間があって、山の上でお昼を食べて。その山の上で座禅を組んで、瞑想して。それが30分ほど。
それからやっと演奏会。演奏が始まって、なんで散歩と瞑想が必要だったかがわかった、と。
ピアノの前身のハープシコードは音が小さくて、よくよく心を鎮めて聴かないと聞こえないそうな。
つまり、散歩と座禅は、ハープシコードの音を聴くための準備に必要だった、と。

「なんか、ワークショップみたいだね。」と私は感想を述べた。
1時間半の準備と、演奏1時間で8000円。
「でも、高くないと思った。」と彼。…わかるような気がした。
そんな、ハープシコードを聴くための作法、というか、自分の心身を整える、在り方、みたいなものが味わえたから、なんだね。
「うん。高くないね。」と私も応じた。

それから、私の学びの話をしたり。ゲシュタルト療法やアロマの講座。
とても刺激的で楽しいの、と私は言った。ああそうか、という発見があって。

「高畑の喫茶店って、『みりあむ』のこと?」って聞かれて。
そうそう!そのお店が、30年来の友人がやっているお店。
節夫さんが、自分で内装を作っていた頃からの知り合いだったと話した。
「そうか…あの店の内装は手作りなんか…。」と感慨深そうだった。
「知ってるの?」「昔、あの辺りに官舎があって、3年ほど住んでいたことがあった。」…そうなんだ。

とりとめもなく話をし、子どもの留年の話になった。
「司法試験、通るまでは、大学にいるのは、言ってみれば一般的だったけどな…。」
「え? 留年したの? …すぐには司法試験、通らなかった?」
「うん。まあ…。」
高校時代の彼は成績優秀で、浪人とか留年とか試験に落ちるとか、そんなことには縁がない人だと思っていた。
「…何年大学にいたの?」「…休学も含めて、9年。」
まあ、びっくり! ホント意外だった。
「その間、他の勉強もして、それが仕事をしてから、意外に役に立ってる。」

「どんな勉強をしたの?」と私は訊いた。「物理、とか、医学、とか…。」
「物理がどんな風に、今の仕事に役立ったの?」
…もう、そうなると、私の好奇心が止まらない。
「うん、と、交通事故…車同士がぶつかって、どちらが先にセンターラインを越えたか、という問題とか。」
「あ、もしかして、車輪の軌跡が割り出せる?」
「そうそう。まさに物理式で、検証できる。…そうすると、最初は被害者に思えてた方が、先にセンターラインを越えてたことがわかったりする。」
「へえ〜!…凄いね…。」
「だから…無駄にはならないよ。…まあ、パチスロなんかにハマってたらダメだけど。」

そうね。そうだよね。…ありがとう。子どもに伝えます。

あっという間に2時間近くが過ぎていました。
ありがとう。また、ね。

詩の世界
2017/08/23
状態の悪い自分とつき合う方法〜中原中也の詩「北の海」〜  
お盆を過ぎましたが、まだまだ残暑厳しいですね。
日中の気温は、連日34℃まで上がっているようです。
でもまあ、日没後の気温は、少し下がって過ごしやすくはなりました。
今朝は、なんとなく冬の、波が荒い日本海を思わせる詩を。「読書への誘い」第25号で紹介したものです。
続き
子どもとの時間
2017/08/22
子どもとの時間(8)大学4年生 ⑤  
昨日、子どもが下宿先に帰っていきました。
…帰る前の小1時間、子どもと話をしました。
帰ってきた日、その翌日、に話したことと少し違う角度から。

最初に私は、ボイスアートのワークで、「9歳の私」を思い出したことを話しました。
バスに乗り間違えて、気づいた時点でバスを降りて歩いて戻り、もう一度バスに乗り直した話。
予想もしなかったことが起きるけど、…それは人生よくあることで、「なんでこんなことに…」と言ってないで、起きた時点で、起きたことを受け止めて、とにかく、なんとかするしかないんだ、と。

それから…前期の成績予測と、…「落とした」と思うものは何が原因だったのか、を問いました。
子どもは、6月後半ぐらいから気持ちが落ち込んだんだ…と答えました。
え? 何かあった?  …いや、卒業できんと思うと…。

「ああ! Kちゃん、3月に教務課に話を伺いに言った時、担当の方がそんな時のために、いいこと言ってくれたよ、覚えてない?」
「…覚えてない」
「将来(さき)のことを考えたら、限りなく不安になるから、考えない。とにかく、今日のことを考える。今日の授業の整理を今日、済ませてしまう。それで、OK。それ以上のことは考えない。そうやって毎日を積み重ねる。…そういう話をしてもらったよ。」

何か、落とし穴にでもはまり込んだ気持ち、かもしれない。
でも、一歩一歩、歩くしかない。
その延長に、未来はある。きっと、ある。

「今、苦しいね。でも、きっと…自分の財産になるから。ね?」
あれやこれや。私の抱えている問題を、今回帰ってきてすぐに、話していた。
「私の抱えている問題は、Kは応援してくれることはできても、代わることはできないでしょう?  Kちゃんも同じだよ。私は応援できても、代わることはできない。…だから、頑張ろう、ね?」

「うん。…頑張る」と子どもは答えました。…何か、無理強いしてないか、私はよくよく、その横顔を見つめていましたが、よくわかりませんでした。
私は…思わず抱きしめるだけでした。

不安だろうな…辛いだろうな…そう心痛めても、代わってあげることはできない。
クライエントさんも、そう。ああ、本当に辛いだろうな、と感じても、代わってあげることはできない。
自分の荷物は自分で背負うしかない。

でも! 自分の荷物を自分で背負う姿をみせることで、何か、励みにはならないか…そう思って、教員の仕事もやってきた。
生徒たちに「勉強しなさい」というなら、自分も授業研究しないと言えないと思ってきた。
自分が努力しないのに、人に努力を言うのは間違っていると思ってきた。

今も同じ、だね。
頑張るから。私も頑張るから。だから、一緒に頑張ろう、ね。
でも…ガチガチに頑張るんじゃなくて、ゆったりと、周りの景色も見ながら、がいいなあ。
…そうできればいいね。…ね?

画像は、11年前の家の植木鉢に咲いた花。多年草で毎年花を見せてくれました。
横に、開きかけの花が見えます。…今から咲く子どもです。

ボイスアート
2017/08/21
ボイスアート・学びの時間(1)  
昨日は、まやはるこ先生の「ボイスアートの勉強会」に初参加しました。
月に一度、神戸のセッション・ルームで行われているものです。

「お辞儀呼吸法」で、意識を自分軸に戻すことをして。
まず、「与える」ということについてのお話がありました。
これは「受け取る」ということと、横軸と縦軸の関係にある、と。

「与える」ことをしようとする時に、「奪われてしまうかもしれない恐怖」に捕らわれることがある、と。
そんな時は「自分の呼吸に還る」ことで「『与える』に還る」のだと。
「自分の呼吸に戻る」とは、自分はどこに在るのか、自分をからっぽにして「分かち合う」立ち位置に立つこと。
そのためには自分の感じている「恐怖」を自覚できることが大事、「気づく」ことが大事。「気づく」ことが「自分を見る」ということである、と。

私にとっては「奪われてしまうかもしれない恐怖」とは「呑み込まれてしまうかれしれない恐怖」のように思えました。呑み込まれて、私の存在が無くなってしまうような…。
心の調子が良くない時に、人前で話をする時、授業をする時に、感じたことがあります。
自分がしっかりとそこに居ることができなくて、ゆったりできなくて、ホント文字通り「心、ここに在らず」の状態。
人前であがったりするのは、こんな時かもしれません。

…そういえば、あがってるな、と自覚した時は、私は無意識に息をゆっくり吐いていた。
肩の力を抜いて、ゆったり構えることを、誰に教わるとなくしていた気がします。

次に「分かりません」という言葉の意味について。
よくよく考えを巡らせて、「わからない」という場合と、「分かりたくない」「考えたくない」という場合の「わからない」がある、と。
後者の場合、「教える」ということをやってはいけない。なぜなら、「教える」ことは「情報を与える」ことだから。
そうではなく、「伝える」ことを。「伝える」とは分かち合うこと。
「分かち合う」とは許し、解放すること。そこには必ず「気づき」がある。だから、安心して不思議と開かれていく、と。

それから、二人組みになって「楽しかった子どもの頃」をテーマに、ワークを行いました。
私は、参加人数が奇数だった関係で、まや先生と組みました。
「楽しかった子どもの頃」を扱おうとすると、いつも私は困ってしまいます。
何も出てこないからです。

目を閉じて、年齢退行を行なって、私が思い出したのは、9歳ぐらいの時、3歳下の妹を連れて、ピアノの先生のお家にレッスンに行った帰り、バスを乗り間違えて、家のバス停まであと少し、のところで右折レーンにバスは入っていって、「あ、違う…」と絶望的な気持ちになってバスが右折するのを見ていた私。
妹はべそをかき出すし、泣きたいのは私も一緒、なのに、どうにかしなきゃ…と必死で考えていた。
…とりあえず、次のバス停で降りよう。
運転手さんに、乗り間違えたことを言って、余分なお金がないことを言ってみよう。
それから…バスが曲がる前の道まで歩いて戻ろう。バスは高架橋を渡ったから、ちょっと距離はあるけど。
それから、バスをよく見て、もう一度お家までのバスに乗ろう。

泣かんでいいよ、大丈夫、お家に帰れるから。
そう言って、妹の手を引いて、歩き出したことを鮮明に覚えています。
運転手さんは、運賃はいい、と言ってくれた。
とりあえず、バスに乗るお金はある。
大丈夫。大丈夫。

家にたどり着くと、母に叱られて。どうして間違えたりしたの? と。
だから、この話は私には「失敗した話」として記憶されていたのだけど、まや先生から「大事なことは無事に家に帰れたこと。不安でいっぱいのマコちゃんに、今のまこさんがそばにいてあげて、大丈夫よ、よく頑張ったね、偉いね、と声を掛けてあげてください」と言われました。
「あなたが辛かったこと、怖かったことはみんな私が知っているからね。だって、私はあなただから」と声掛けすることも。「そうして、二人を光で包んであげてください」と。

「小さなマコちゃんは、どんな風ですか?」と尋ねられて、「なんだか嬉しそうに私を見上げています」と答えました。
…そう、私は、9歳の時の私が、やっとにっこりしたのを見たのでした。

母がなんでその時叱ったのか…それもわかる気がしました。母はびっくりしたのです。
びっくりして、その気持ちを持て余して、どうしてそんな心配をさせるの? と私を責めたんだと思います。
私がちゃんとバスを間違えなかったら、そんな心配をさせられることもなかったのに、と。

でも、今回のワークで大事なのは、不測の事態が起きてもちゃんと私は対処したんだ、ということ。
それを認めてあげること。無事に家に帰ることを、ちゃんとやり遂げた話として認めること。

誰も間違えたくて間違えるわけではない。
でも、予想外のことが起きるのが人生ではないか、と思います。
起きてしまったことに、なぜ?と問うのではなく、「どうすれば、この状況を切り抜けられるか」にシフトした方がいい。
なぜ?と問うても、自分や状況を責めるばかりで、事態は変わらないから。
自分を責めることは、力が萎えていっても、事態に対処する力は湧いてこないから。

…そうね。今日、下宿に戻る子どもに、この話をしよう。
不測の事態に対して、どう対処するか、があなたの財産になる。
そう。自分を責めることは無益で、逆に有害ですらある、と。

画像は、つい最近、トリミングに行った杏樹(アンジー)。胸張って、すっくと前を向いています。

絵本の世界
2017/08/20
そこがあなたの生きていく場所〜『オーシャン ワールド』ピーター・シス作〜  
今朝は、どういういきさつで買ったのか、まるで思い出せないけど手元にある絵本を紹介します。
ピーター・シスという人の作品、『オーシャン ワールド』です。
1995年に第1刷がブックローン出版から出ています。
あ、子どもの生まれた年ですね。…じゃあ、いつか子どもに、と思って買ったんだろうか。
ほとんど言葉がない絵本です。

表紙絵からして、たくさんの鯨のコマ取りのような絵。
…なんとなく、クジラの話かなあと思ってページを繰ると…子ども用家庭簡易プールの中に小さなクジラがいて…、


それから、絵葉書の裏の言葉があって…


あ、これって、絵葉書の表裏だったんだ!と発見して。
どうやら、町の水族館に、生後2、3週間の小さい女の子のクジラが来ているようで。
この子は将来、海に帰されることがわかって。
ピーターは、ちょっと心配しているんだね。「ちゃんと、ともだちできるだろうか?」って。

で、小さいクジラの女の子は、どんどん大きくなり…






海に帰される日が来たのね。



いろんなものと出会い、…それは、お月さまとも、お日さまとも。
生きているものとも、生きてないものとも。
…そして、一頭のクジラと出会う。

ああ、なんとかやっていけそうだね、というところで終わります。

大海原は大きくなったクジラも小さく見えるほど広くて、でも、そこがあなたの生きていく場所、なんだね。
町の水族館は、小さなクジラを保護することはできても、生きる場所ではない。

そうそう。とうなづく私がいる一方で、ちょっと、淋しがっている私がいます。
…一週間居た子どもが明日、戻ります。

アロマオイル
2017/08/19
ナード・ジャパン インストラクターコースLesson2(2)〜植物から精油を取る方法〜  
昨日は久しぶりにナードジャパン認定校メディカアロマで、インストラクターコースの講義がありました。
講師の中田尚美先生は、アロマのことを楽しそうにお話しされます。
「先生は、本当にアロマのことがお好きなんですね。聞いていて、そう思います。」いつもそう思い、…そして昨日初めてそうお伝えしたのでした。
「とても素敵です」と。

学校の授業でもそうですよね。
多分、…何かよくわかんないけど、先生がとても楽しそうに話してくれてたら、なんだろな?と思って興味を持ちますよね。
新しい「もの」との出会いは、そんな風に「先達(せんだつ)」がいて、そんなにいいものなんだったら、ちょっと覗いてみようかなって気になって、時にはそこから自分でハマり込むことになったり…ということなんだと思う。
新しい「もの」そのものに感動するときもあるけど、そんな出会いはそうそうなくて、それよりはその「もの」を教えてくれる人がその「もの」がどんなに好きか、に感動するんだと思う。

私もね、特に詩の授業が好きだったのですが、それは私が詩が好きだったから、だと思います。
ああ、この詩、素敵!と思ったことを、どんな風に伝えようか、何をどの順で組み立てたら、その「素敵!」が伝わるだろうか、私の「素敵!」以外にどんな「素敵!」を生徒たちは発見したんだろうか? …と興味は尽きなかった記憶があります。

あ、話が横道に逸れました。
インストラクターコースのレッスン2の2回目は、「植物から精油を取る方法」。
アドバイザーコースででも、簡易的には説明されていたのですが、今回は詳細に。

まずは「水蒸気蒸留法」。アロマテラピーで使われる精油の多くがこの方法で採油され、ハーブウォーターもこの方法で得られます。その水蒸気蒸留法に中に、3方法があります。
① ウォーター・ディスティレーション…植物を沸騰水に直接触れさせた方法
② ウォーター・スチーム・ディスティレーション…蒸留釜にすのこ状の板を設置して植物を入れ、板の下に水を入れて加熱する方法
③ スチーム・ディスティレーション…蒸留釜に植物を入れ、そこにスチームを流し込む方法

ほとんど①の方法によるんだそうですが、加熱による成分の変性を起こさないのは②と③。
③は、ゆっくり蒸すことになるので、さらにいい方法なんですが、とにかく時間がかかって、1時間以上、場合によっては4、5時間を必要とするようです。

次に「圧搾法」。
主に柑橘類の果皮から精油を採取するのに使う方法で、柑橘類の果皮を加熱しないで潰したり傷つけたりして、油室にある精油を取り出します。
この方法で、重い芳香分子も採ることができます。
フランスやベルギーなどでは、この方法で採ったものを「エッセンス」と呼び、「エッセンシャルオイル」と区別することがあるそうです。

最後は「抽出法」。抽出材料によってさらにいくつかに分類されます。
(1)油脂吸収法(油脂吸着法)…精製して無臭にした牛脂、豚脂、オリーブ油などを用いて、花などを浸して芳香成分を吸着させる方法
    ① 温湿法(マセレーション/マセラシオン)…油脂を60〜70℃に加熱して花を浸す方法
    ② 冷湿法(アンフルラージュ)…室温で油脂に花を置いて香りを吸着させる方法

・ポマード…香りを高濃度に吸着させた飽和油脂
・アブソリュート…ポマードをアルコールで処理して精油のみを抽出したもの

(2)溶剤抽出法(揮発性溶剤抽出法)…ノルマルヘキサンなどの揮発性溶剤を使用して花などの芳香分子を抽出し、その後アルコールで処理する方法。加温しないため、熱変性が少なく、水溶性成分を含む。

・コンクリート…芳香成分を抽出した後、溶剤を取り除いたロウ状のもの→コンクリートをアルコールで処理して「アブソリュート」」精油を得る。
・レジノイド…樹脂などの原料をアルコールで抽出し、さらに濃縮して得た可溶性樹脂を含むもの
・オレオレジン…ある種の植物乾燥物(スパイスなど)を揮発性溶剤で抽出して溶剤を除去して得たペースト状のもの
・芳香チンキ…アルコールなどの溶剤で抽出し、溶剤を回収後に抽出濃縮物をアルコールに希釈したもの

(3)超臨界流体抽出法…常温では気体である炭酸ガス(二酸化炭素)などを加圧、冷却して抽出溶剤とし、精油を抽出する方法。(抽出後、常温に戻すとガスは揮発して精油は残る)

注目の方法だそうですが、大型の装置が必要でまだ流通量が少なく、アロマテラピーでの使用例が少ないのが現状だそうです。
水蒸気蒸留法や圧搾法で採られた精油とは成分の構成が異なっていて、エビデンスが少ない、とのことでした。(ナードのエビデンスは水蒸気蒸留法によるもの)


このレッスンで、アドバイザーコースででも扱った「パルマローザ」という精油をもう少し詳しく学びました。
この精油には「鎮痛作用」「抗菌作用」があり、感染症に効能があるということを学んだので、レッスンが終わってからルームに寄って、朝から少し喉が痛いと言っていた子ども用に喉用のジェルを作りました。
また、ギブスをしている母の指先が紫色になっていたので、「鬱滞除去」にはヘリクリサム、と教えていただいたのですが、持っていなかったので、ローレルとラヴィンツァラで代用したジェルを作りました。
ローレル3滴、ラヴィンツァラ1滴を10グラムのジェル基材に混ぜ合わせると、2%の濃度になります。
子ども用には15%の濃度ですので、10グラムのジェル基材に対して30滴。
中田先生にお聞きすると、すぐにレシピと濃度を答えていただけるので、本当に凄いなあと思います。ありがたいです。

画像は、子どもに作ったジェル10g。

詩の世界
2017/08/18
「日常」に潜む「非日常」〜平田俊子の詩「あいさつは大事」〜  
今朝はちょっと風変わりな詩を。「読書への誘い」第2号で紹介したものです。

  

 


続き
年中行事
2017/08/17
盂蘭盆会 施餓鬼法要(うらぼんえ せがきほうよう)  
昨日は、父のお墓のある霊園で「盂蘭盆会 施餓鬼法要」が営まれました。
昨年は、父のお葬式を行ってくれたお寺での法要に参加して、霊園での法要には参加しなかったので、今年が初めて、となりました。
午前の部とお昼の部、夕方の部の3回あったのですが、最後の夕方の部に参加しました。

まずは法話。
「盂蘭盆会」はサンスクリット語の「ウランバーナ」からきていて、「逆さ吊り」のこと、だとか。
つまりは、地獄に落ちての苦しみを意味するそうな。
それから、釈迦の10大弟子の内の「目連尊者」の話。

安居(あんご=それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行する期間のこと)の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。

喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。

哀れに思って、釈迦に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘(修行僧)に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と言われた。
その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。
すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。

「飲んだり食べたり踊ったり」の踊りが「盆踊り」の由来だそうです。
四天王寺では、開祖の聖徳太子の生誕1400年を迎える平成34年に向けて、3年前から「河内音頭」の曲に乗せて、歌詞は聖徳太子にまつわるお話にして始めたそうです。
…まあ、お経も「如是我聞」(=お釈迦様がおっしゃったことをこんな風に私は聞きました)というお話だから、新たに「聖徳太子はこんなお方です」のお話ができてもいいのかもしれない。
毎年、「〜編」ということで、聖徳太子一代記①ご生誕編、②少年時代編、③蘇我vs物部編、と続き、今年は「④四天王寺創建編」だったそうです。

ふう〜ん。
どんな宗派も受け入れます、という四天王寺は、「和宗 総本山」として立っているお寺だったのですね。
両親が自分たちで用意した墓地だったので、知りませんでした。
ちょっと、「聖徳太子一代記」も面白そうですね。

それから、声明が始まって。続いて読経。読経の最後は般若心経でした。
その辺りから、一般参列者のご焼香が始まり…。

会館の外に出ると、夜の7時前で、辺りはすっかり日暮れていました。
墓地を通って駐車場に向かう途中、頬を通り過ぎる風が爽やかに感じられました。
ああ、もうやっぱりお盆を過ぎた風だ…と思いました。

子どもは退屈そうでしたが、私には法話やお経を聞いたりする時間が心地よく感じられることにも気づきました。
あれやこれや…思いを馳せるのに、必要な時間、なのかもしれません。

画像は、法要が営まれた会館。お坊さんが十人も来られていました。
金色の、燦然と輝く調度品で、「死ぬのは怖くないんだよ」と説いているのでしょうか?

絵本の世界
2017/08/16
クレーの絵に詩を添える〜『クレーの絵本』谷川俊太郎〜  
本の帯には「Art & Poem  響きあう絵と言葉のおくりもの」とあります。
講談社から1995年に第1刷が出ています。私が持っているのは1999年の第12刷。
パウル・クレー(1979−1940)の絵に谷川俊太郎が言葉を添えて、美しい詩絵本となりました。

クレーは音楽教師の父と声楽家の母、三歳年上の姉の四人家族の長男として、恵まれた環境に育ち、4歳で祖母から絵を、7歳でバイオリンを始めたそうです。ナチスによる迫害と、皮膚硬化症という奇病に苦しみながらも、目覚ましい創作活動を展開し、1940年6月、療養先の病院にて永眠。
絵と音楽と詩にあふれた生涯だった、と奥付の紹介にありました。

いくつかの、目に留まった詩と絵を紹介したいと思います。


13  「まじめな顔つき」(1939)

  まじめなひとが
  まじめにあるいてゆく
  かなしい

  まじめなひとが
  まじめにないている
  おかしい
  
  まじめなひとが
  まじめにあやまる
  はらがたつ

  まじめなひとが
  まじめにひとをころす
  おそろしい


この絵本の13番目の絵と、それに添えられた詩です。
昨日は8月15日、終戦記念の日でした。
それで、多分、目に留まったかと思います。

「かなしい」「おかしい」「はらがたつ」「おそろしい」といった感情を表す言葉。
一般的には詩では用いない言葉です。
悲しい時に「悲しい」と表現するのではなく「悲しい」情景を描写する、というのが「詩の作法」だからです。
けれど、あえて詩人はこの言葉を持ってきました。しかも、ひらがな表記で。

すると、どうでしょう? 
「まじめなひとが/まじめにあるいていく」その姿が、滑稽で、そして妙に物哀しく、情景として浮かんできます。
「かなしい」は「悲しい」でも「哀しい」でも「愛しい」でもいいわけで。
どんな風に感じるかは、読み手に委ねられています。
漢字文化をベースにして、和語の持つ響きで奥行きを持たせた試みだと思います。

最後の連は、そういった「普通の人」が「普通に」人が殺せる恐ろしさを訴えていると思います。
そのような狂気に走るムードにならないよう、踏ん張らないといけないと私は感じています。



35  「死と炎」(1940)

  かわりにしんでくれるひとがいないので
  わたしはじぶんでしなねばならない
  だれのほねでもない
  わたしはわたしのほねになる
  かなしみ
  かわのながれ
  ひとびとのおしゃべり
  あさつゆにぬれたくものす
  そのどれひとつとして
  わたしはたずさえてゆくことができない
  せめてすきなうただけは
  きこえていてはくれぬだろうか
  わたしのほねのみみに


1940年というと、クレーが亡くなった年ですね。
死の影を感じていたのでしょうか。妙に絵が暗いです。
それに反応してか、谷川俊太郎はこのような詩を添えました。

ボイスアートのまやはるこ先生が、「死んでいくときの描写は、『かぐや姫』のアニメ映画で上手に描かれていたと思う。あんな風に、だんだんとこの世での記憶がなくなって、感情が消えていって、無表情になる」と言われていたのを思い出します。

そうなんでしょうね。記憶を手放すから、感情の起伏もなくなり、何も感じなくなって、やっと「執着」から解放されるのかもしれません。
わたしの好きだったものは「そのどれひとつとして/わたしはたずさえていくことができない」と知りつつ、それでも、と願うのですね。
「せめてすきなうただけは/きこえていてはくれぬだろうか/わたしのほねのみみに」
それが「私」の残像となることを願ってしまう。かくも「私」から離れることは難しい。



37  「黄金の魚」(1925)

  おおきなさかなはおおきなくちで
  ちゅうくらいのさかなをたべ
  ちゅうくらいのさかなは
  ちいさなさかねをたべ
  ちいさなさかなは
  もっとちいさな
  さかなをたべ
  いのちはいのちをいけにえとして
  ひかりかがやく
  しあわせはふしあわせをやしないとして
  はなひらく
  どんなよろこびのふかいうみにも
  ひとつぶのなみだが
  とけていないということはない


最後は、表紙絵となっている「黄金の魚」です。
生きているということが、そもそも他の命をいただいていることで。
それを考えると、確かに、手放しで喜べるものなど、何ひとつないのかもしれない。

始まりがあれば終わりがあって。人との出会いもそう。
出会いがあれば、別れもあって。

そういえば、「出会いは選べないけど、別れは選べる」というようなことを聞いたことがあるような。
出会いは偶然に始まるけど、別れは…どんな別れ方をするかは、自分の意志で選べる、と。
「突然の失恋もあるから、それは違うよ」と言われそうだけど、でも、その場合だって、いろんな別れの兆候を「見ないふり」「気づかないふり」をしてきた自分がいるのだと思う。

でも…出会いも本当は自分の意志かもしれない。
会ったとしても、心動かされないと「出会えない」。
心動くためにはほんの少しでも、心に「余裕」というか…「余白」がないと、他の人が入ってこれない。
その「余白」をその人のために作ったのは自分、ではないだろうか。…という気がしてる。

どんなことも「私」が望んだこと、なのね。
ならば、今からは何を望もうか、と考えよう。
どんな今日を、どんな未来を創ろうかって考えよう。

亡くなる年まで絵を描き続けたクレーの存在は、私が何によって立つのか、を思い起こさせてくれました。

幸せをおすそ分け
2017/08/15
子どものお盆帰省  
お盆に子どもが帰ってきました。
…「帰る」って言ったって、広島生まれの広島育ちなので、「帰る」感覚はないでしょうけれど。
ああ、そうか。親の私がいるところに帰る、感覚、かな?
「ただいま、帰りました。」という祖母へのご挨拶に、へえ〜とちょっと感動した母なんですが。

4日ほど居ると聞いていたので、前後は移動日だから、実質は中2日ね、と思っていたのですが、1週間居るというので、そう聞いた途端、なんか、ちょっと嬉しくなってしまった私です。(あ、やっぱり私、嬉しいんだ、と思いました。)

いろいろ聞きたいこと、ある。いろいろ話したいことも。いろいろ食べさせたいものも、ある。
…何を作ろうかねえ。…何食べたいかしらね? それを聞こうかしら。
なんか、私の中の、あれしたいこれしたいが、むずむず湧いてきた。
ああ、ダメダメ。まず聞いてからね。

生駒駅まで車で迎えに行って、顔を見たかと思うと、「キャリーバッグのコロが1コ壊れた」と言う。
今回、下宿を出た途端に気づいたそうな。バイト代が飛ぶ!と嘆く。
「私の同級生がキャリーバッグを直した模様をFacebookに投稿していたよ。」と情報をあげる。
私も「凄い!」と思ったけど、そんな、自分でできる気がしなかったので、微に入り細に入って投稿記事を読まなかった。…もう一度見直さないと、と考えている自分を意識する。
さて、この子はどうするかな? 

子どもの顔を見た途端、杏樹(アンジー)が大興奮。
ぴょんぴょん跳ねて、歓迎する。
夕方のお散歩も、子どもが家にいるから行き渋って、トイレを済ませたら、早々に「帰ろう!」って引き返す。
ね、アンジー、全然世話もしてくれなかったのに、おまえ、好きなんだねえ…。なんでかなあ。

画像は、昨日の朝、トリミングに行って綺麗になったアンジー。向日葵の飾りが夏らしいでしょ?

ゲシュタルト療法
2017/08/14
第3回 ゲシュタルト・アドバンス トレーニングコース〜室城隆之さん〜(2)  
前回の続きです。
理論説明の時に、「技法の前に哲学があるので、どういった哲学からその技法が出ているのか、それを理解してほしい」と言われていました。
…なんでもそうですね。形を追っても、型のように真似するだけでは、何かの折に破綻をきたす気がする。
通り一遍の状況でない場合、対応できない気がする。

あ、今「通り一遍」なんて打ってしまったけど、「通り一遍」なんて意識でいるときはダメですね。
「見慣れたパターン」のように思えても、クライエントは違うし、状況も異なるし、…多分、真っさらな気持ちでクライエントの前に座らないといけない、気がする。
続き
ゲシュタルト療法
2017/08/13
第3回 ゲシュタルト・アドバンス トレーニングコース〜室城隆之さん〜(1)  
GNK(ゲシュタルト・ネットワーク・関西)主催のゲシュタルト療法アドバンスコースの3回目が始まりました。
(本当は、トレーナー審査会の後半をまとめるつもりだったのですが、ホットなうちにワークのまとめがしたくなって、急遽予定変更しました。)
ファシリテーターは、室城隆之さん。ゲシュタルト療法学会の理事長をされています。
室城さんのワークは、ベーシックコースの時が初めてで、今回2回目。

1日目の昨日は、午前にまず理論学習。あ、テキスト持ってくるの忘れた!と思ったのですが、レジュメを用意してくださっていました。
「ゲシュタルト療法の基礎と実際」と題された、11ページものパワーポイント形式の資料。
続き
ゲシュタルト療法
2017/08/12
ゲシュタルト療法学会 トレーナー審査会  
ゲシュタルト療法学会のトレーナー審査会に初めて参加しました。
いえ、審査を受けに行ったのではありません。
一般参加で、審査を受ける人のファシリテーターを見せてもらったり、ワークを受ける人になったり。
その上、なんと審査にまで加わる!のです。
…いいのかなあ…評価基準も定まっていないのに。という気持ちで一杯だったのですが、そういうきまりで。
ただし、一般参加も「ベーシックコース」までは終了していないと参加できません。

今回は3名の方が審査を受けるようで。スーパーバイザーも6名来られました。
続き
言葉
2017/08/11
貝殻に添えられた言葉〜Instagram(インスタグラム)の言葉〜  
毎朝コラムを書くようになって8ヶ月。
その頃からInstagramも始めたのですが、この世界にもいろんな方がいらっしゃって。
今朝はそのうちのおひとり、貝殻の写真と言葉を添えてインスタにあげていらっしゃる方を紹介しようと思います。
…いえ、リアルに会ったことはありません。

貝殻の写真は、いつも1個。白を基調として、いろんな貝殻を綺麗にアップで撮られて。
それから、その貝殻の色や形から、それに合うような言葉を引用されるのです。

たとえば…真っ白な円錐状の貝殻で、でも、少しその円錐が欠けていて、中には渦を巻いているような形状が展開されていて…という貝殻に添えられていた言葉は、「ふと、祈りたくなるような場所はありますか?」でした。
あ、と思いました。貝殻の中の空間を「祈りの場」のように見られたのだな、とわかって。

そんな風に言われると、またそんな風に見えてきて。
添えられた言葉はまだ続きます。
「なにごとの  おはしますかは  知らねども  かたじけなさに  涙こぼるる  西行法師」

読んでいるうちに、私は梁塵秘抄の一節を思い出し、コメントしました。
「素敵な形ですね。きっと中央の場所で佇んで祈る、感じでしょうか。お言葉を読みながら、私は梁塵秘抄の一節を思い出しました。『仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞ あはれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ』
(※補注  これは今様なので、「たもう」と読むのがいいと思います)

そうしたら、こんなご返事が帰ってきました。
「コメントありがとうございます。梁塵秘抄の今様のリズムあるコトバ、とても心地よいです。」

あ、今様ってご存知だったんだ…と、ちょっと嬉しかったです。

私はインスタのプロフィールに、カウンセリングルーム開設に至るまでの経緯を少し書いて、それからルールの場所も明示しています。
HPにもアクセスできるようにもなっているので、どんな仕事をしているのか、またどんなコラムを書いているのかは、一目瞭然なんですが。

その方は、そんな風には自分を出されていないので、性別さえもわかりません。

でも、なんというか、この人の世界に魅かれる私がいて、コメントで繋がれたりして、…こんな繋がりも面白いなあと思うのです。

この方も、毎日アップされています。
今日はどんな貝殻で、どんな言葉が添えられているんだろうと、ちょっとワクワクします。

最近のもので、もうひとつ。
「あなたの置かれた状況は、不運か? 幸運か? 『自省録』マルクス・アウレーリウス  波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている。その周辺に水のうねりはしずかにやすらう。…これは不運ではない。これを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」

マルクス・アウレーリウス、ですか…。2世紀後半の、ローマ五賢帝の5番目の皇帝で、ストア派の哲学者としても知られる人ですね。困難なさなか養子に迎えられて、皇帝を継いだ人です。この人が亡くなった後、ローマは衰退に向かいます。

そんな困難な道を歩んだ人の言葉なので、含蓄があります。

画像は、10年以上前に撮った向日葵。確か…滋賀の農場公園、だった気がします。
その日はお天気があまり良くなかったのですが、夕方に一瞬、日が差して、「あ、チャンス!」と思ってシャッターを切った記憶があります。
本当は、貝殻の画像を持ってきたいところですが…でも、Instagramのその方に敬意を表して、夏らしい向日葵にしました。

母との暮らし
2017/08/10
お盆前のお墓掃除  
台風5号が去っていった翌朝は曇り空だったので、ちょうどお墓の草抜きをしたりするのにいいように思って、「今から行く?」って母に声掛けしたら「行く」というので、早速準備をして車で出かけました。
お墓は富雄の高台の霊園にあって、車じゃないと難しい。
まあ、富雄駅からマイクロバスの定期便が出ているらしいけど。

雨が降った後なので、草抜きもしやすく。
…それにしても、毎度毎度、よく生えてくるね。ホント雑草はたくましい。
抜き取られても、根っこを少し残しているんだね。
抜き取られた瞬間は、やっぱり「悔しい」と思うんだろうか?
それとも…「まあ、いいさ。今に見てろ」と思うんだろうか。

草抜きをしながら、亡くなった父の姉である伯母の話が出て。
看護婦として長年働いた伯母はしゃきしゃきしていて、きょうだいからも頼りにされて。
4つ違いの父が小学校に入学した時には、大丈夫だろうか、うまくやっているだろうかと、しばしば1年生の教室まで父の様子を見に行った、という話を伯母から聞いたことがあります。

その伯母は今年90歳。
さすがにこの夏は農作業はできなくなったそうです。

いやいや。連日35度を超えているのに、農作業なんかしたら倒れてしまうよ。

この伯母の口癖は「負けてられん」。
いろんな問題に正面から向き合うのに、そう言って自分を鼓舞してきたのでしょうね。

そんな伯母が、母と電話で話していて「墓参りに行くのが嫌になった。自分が参るのはいいけど、自分がここに入るのかと思うと情けのうなる」と言ったらしい。
昨年、そういえば私も伯母から聞いたなあと思いながら。

「お墓に入るのが嫌なら、散骨でもしてもらったらいいのに」と私が言ったら「そうじゃなくて、死にたくないってことやと思う」と母。
ふう〜ん。でもみんな、いずれ死ぬよ。死なない人なんていないよ。
…そういうことじゃなくて、死ぬのが怖いんだろうか…?

まあ、ね。初めての経験は、誰しも不安に思うでしょうね。
私も、…今は不安に思っていなくても、歳を重ねて、いつ死んでもおかしくない歳になれば、不安に思うのだろうか?
わからないけど。物心ついた時からずっと淋しかった私は、10代20代が淋しいばかりだった。
そうして、少しずつ「淋しいばかり」から抜け出てこられたんだけど。

だから、ね。私は、もう生きなくていいなら、なんか嬉しい気がするんだけど。
いえ、生きている間は、私なりに精一杯を積み重ねようとは思います。
でも、もういいよ、って言われたら、「ホント?」ってワクワクウキウキで、お布団の中でぬくぬくしている気分、なんだけど。

みんなに会えなくなって、生きてきた記憶も薄れて、この世にお別れを告げるのでしょうね。
周囲の音や声は最期まで聞こえているらしい。
幽体離脱、なんかしちゃって、周囲を見渡して、魂が肉体から抜けていくんだろうか…。

みんなに会えなくなるのは淋しい、とか、この場所から離れるのは淋しい、とか、これはみんな「執着」なんでしょうね。
「諸行無常」…みんな流れていく…変化していく…
そうか…母にも伯母にも、「平家物語」の冒頭や「方丈記」の冒頭を教えてあげよう。
昔から、日本人はこんな風に世の中や人生を捉えていたんだよ、という知恵を。
「古典」はこんな時に、少しは役に立つかもしれない。

お墓の草抜きをしながら、こんなことを考えていました。
それから、お花を供えて。1歳になるまでに亡くなった甥っ子のお墓にも。

画像は、この前通った、表参道の交差点。
私には、時折、都会のビルが卒塔婆のように見えること、あります。

絵本の世界
2017/08/09
ほのぼの世界〜『にゃーご』宮西達也 作・絵〜  
今朝はちょっとすっとぼけていて、ほのぼのする絵本を。宮西達也作・絵の『にゃーご』です。
すずき出版から、1997年初版第1刷が出ています。
私の持っているのは2014年の第29刷。
確か…この作品は子どもが小学校2年生ぐらいの時の国語の教科書に採用されていて、「本読み」の宿題で、子どもが読むのを聞いていて知った、と思います。
絵本として出ているのを知らなくて、街の本屋さんで見かけて、懐かしくなって、つい手に取った記憶があります。

なんだか怖〜い感じの猫の顔が大写しになった表紙絵。
ページを繰ると…


ねずみの学校風景。
「『いいですか、これが ねこです。
このかおを みたら すぐに にげなさい。
つかまったら さいご、あっというまに たべられてしまいますよ。』
こねずみたちは、せんせいのはなしを いっしょうけんめい きいています。

でも…あれえ…
せんせいのはなしを ちっとも きかずに おしゃべり している こねずみが  さんびき いますよ。」

まあ…ね。どこにでもいるわね。話を聞かないでおしゃべりしてる輩が3匹ぐらい。
いえ、もっと多いかもしれない。
で、置いてけぼりを食うんです。


「しばらくして  さんびきが  きがつくと、みんな  いなくなっていました。

でも!全然めげません。

「『あれえ  だれも いないよ』
『それじゃあ  ぼくたちは  ももを  とりに  いこうか』
『うん、いこう  いこう』

あっけらんとしたものです。こねずみたちが歩き出したその時、


「にゃーご 
さんびきの  まえに  ひげを  ぴんとさせた  おおきな  ねこが てをふりあげて  たっていました。」

まあ!どうしましょう。…だから言わんこっちゃない! 先生の話をまるで聞いてなかったから、こんな怖い目に。

…と思っていたら、こねずみたちの様子が変。
3匹はかたまってひそひそ声で話し始めるんですが、どうやら「猫」ってわかっていなくて、で、聞くんです。「おじさん、だあれ?」
戸惑った猫が答えられないでいると、こねずみたちがもう一度、元気よく「おじさん だあれ?」って聞くものだから、猫はつい「た、たまだ」と答えてしまって。

こねずみたちは、たまおじさんに、桃を取りに行こう!と誘います。
猫は、桃を食べてからでも遅くはない、と話に乗ります。
猫はこねずみたちを背中に乗せて桃の木の方へ走っていき…、桃を食べ…、残った桃を1つずつ持って、またこねずみたちを背中に乗せて帰っていきます。
途中、ぴたっと止まって、


にゃーご!とできるだけ怖い顔で叫んだんだけど…


そしたらこねずみどもは、おんなじように「にゃーご」「にゃーご」「にゃーご」って叫んで、
「『へへへ…たまおじさんと  はじめて  あったとき、  おじさん  にゃーご!って いったよね。
あのとき、おじさん  こんにちは!  っていってたんでしょう。そして  いまのにゃーごが  さよなら なんでしょ』」
なんて言って。

さらに、持って帰った桃をひとり1個ずつ分けて、「ぼくはいもうとに」「ぼくはおとうとに」お土産だって言ってたのに、猫に子どもが4人いると知ったら、こねずみどもはみんな、じゃ、1個じゃ足らないね、と言って4個全部をくれたのです。

…もうこうなると、こねずみたちを食べられませんよね。
おまけに「おじさーん、また行こうね」なんて言われたりして。

ため息ついて、猫は退散します。

まあ、ね。先生の話を聞いていなかったばかりに助かった!というのは笑えます。
「たま」なんて、名乗ったばかりに個別の関係ができちゃって。
(鶏なんかも、いずれ絞め殺すのがわかっている時には、名前をつけちゃダメっていうの、聞いたことあります。…辛くなるのですね。)

でも、ちょっとほのぼのします。
こんな世界があってもいいような、今朝の気分です。

アンジーとの暮らし
2017/08/08
杏樹(アンジー)のお返事  
台風5号が迷走したために、そして、随分遅い速度(時速20キロ)で進んでいくために、水害が各地で発生しています。
今朝もまだ、富山に台風の目はいるようで、やっと時速25キロにはなったそうですが、さっさと進んでくれないかなあ…早く熱帯低気圧になってくれないかなあと思います。

雨降りは杏樹(アンジー)にとっては鬼門。
トイレがお家の中で出来ないために、台風でも散歩に行かないといけません。

昨夜も、雨が比較的小降りになるのを見計らっていたら、7時を過ぎてしまいました。
「お散歩、行くよ」って言ったら、ジャンプして喜んだのですが、でも、玄関の扉を開けると…雨模様にちょっと引き気味。
「ママ、行くの?」って感じで、私を見上げる始末。

「だって、おまえ、お家で出来ないでしょ?」と言いながら、傘をさして家を出ました。

午後6時ぐらいから「台風の目」の中にいる、という状況だったので、さすがに人っ子ひとりおらず、時折車が猛スピードで走り去って行くだけ。
「トイレ、済ませたら、さっさと帰ろうね。」と言いつつ、街路樹の通りを歩いて行きました。

ちょっと短めのお散歩にアンジーはご不満で。
「でも、しょうがないでしょ? まだ台風は行ってしまってないんだし。」
と言っても、気持ちは収まらない様子。

うおおおう…と文句を言いはじめるので、「アンジー! アンジーって呼んで、お返事したら遊んであげるよ。」と声掛けして呼んだら「わん!」って元気よくお返事。
ホント? たまたま? と疑ってもう一度「アンジー!」って呼んだら、また「わん!」ってお返事。

…ということで、アンジーは呼ばれたらお返事できるようになりました。
今朝はまだ、眠っています。


仰向きで、自分のベッドを枕にして。ちょこんと乗っけた両前足が可愛いでしょ?

詩の世界
2017/08/07
眠れぬ夜の過ごし方〜中江俊夫の詩「夜と魚」〜  

今朝は中江敏夫の詩「夜と魚」を。

夜の詩で、日中読むのは自分の頭を想像の世界に飛ばさないといけないかもしれませんが。

「読書への誘い」第53号で紹介したものです。

続き
絵本の世界
2017/08/06
七五調のリズムに乗って〜『グリーンマントのピーマンマン』さくらともこ作/中村景児 絵〜  
ピーマンが、グリーンのチェックのマントをたなびかせて、空を飛んでいる表紙絵です。
「ピーマンマン」って「マン」がひとつ余計? とか思いながら、ページを繰ると…


「『おさかな だいすき。
  おにくも だいすき。 
  やさいも パンも 
  ぎゅうにゅうも、
  ぼくたち だいすき。
  だいだい だーいすき。』」

って言って、ご機嫌な顔で食べてる女の子、男の子。

「『だけど、だけど、 たったひとつ きらいなものが ある…。
   それは、ピーマン。
   だって においが くさいよ。 たべると にがいし、ピリピリ からい。
   ぼくたち ピーマンだけは だいっきらい』」

おやおや。牛乳だってだいすきって言ってたのに、ピーマンだけはダメ、ですかあ…。


…で、泣くんですね。

「『嫌われちゃった、シク シク』
『かなしくなっちゃう、メソ メソ』みどりのなみだをポロポロながして、ウェーンウェーン。
それをみていた やさいや おなべ。
『なきむしピーマンなんて いやだなあ。 ともだちなんかに なりたくないよ。』」

ああ!最悪です。他の野菜にまで嫌われちゃった…。
ところが…


「みんなが ねている よるのこと。
た、た、た、たいへんだ。
バイキンたちが やってきた。
『へへへ…。おいらはのどいたバイキン。やさいぎらいの子の のどをめがけて それ!』」

まあまあ、大変!  野菜たちも、お鍋たちもブルブル震えているばかり。

「みんなにおされた そのひょうし、ピーマンがスポッととびだした。」

すると…、

「『ぺっぺっ、からくて しびれちゃう』『ムッ、ムッ、くさくてめがまわるー!』とバイキンども。」

見事追い払うのですね。
「『すごいな すごいな ピーマンマンは、よわむし なんかじゃ ないんだね。
      なきむしなんかじゃないんだね。ふしぎなちからがあるんだね。
      ピッピッピッピッ ピーマンマン。』」

まあ…いつのまに。
嫌われて、悲しくなって、涙を拭いていたはずの布巾をマントにしちゃったりして、ガッツポーズ。

すっかり自信をつけたピーマンマンは、「はらいたバイキン」が来た時にもやっつけてくれるのです。

あ、「ピーマンマン」って「ウルトラマン」とかの「マン」でしたか。

で、最後は、


子どもたちに、ピーマンもだーいすき!って言ってもらえるのですね。

まあ、ね。偏食をなんとかしようっていう意図はいっぱい見えているんですけれど、ね。
「しつけ絵本」的ですけれど、まあ、いいか、と思うのは、言葉のリズムがとってもいいこと。
基本「七五調」のなだらかな語調に乗せて、それが難しい時には「ピッピッピッピッ ピーマンマン」なんて、ちゃんと、言葉遊び的なリズムに乗せて。
読んでいても、聞きていても、心地良い。

この絵本は、子どもが保育園の時に気に入って、借りて帰ったのが購入のきっかけです。
それでも嫌いな子は嫌い!って言うかもしれませんが、ピーマンの「働き」もちょっと横目で見ておくのもいいかなあと思います。

旅日記
2017/08/05
雑司が谷駅界隈  
昨日は用があって、東京メトロ副都心線の雑司が谷駅に初めて降り立ち、周辺を歩きました。
目的地には1番出口から出るような案内があったのに、どういうわけか反対の2番出口側に出てしまって、改札で駅員さんに「1番出口に出ないといけなかったのですが、ここを出てどの方向に行けば、その1番出口の方ですか?」と聞いたのだけど、駅員さんの答えは「もう一度、駅に降りて、1番出口から出た方がいい。上に出れば分からなくなる」でした。
確かに、1番出口自体が、そうわかりやすいとも思えず、これじゃあ地上に出てしまったら、ますます分からなくなって迷ったな、と思えました。

続き
ボイスアート
2017/08/04
ボイスアートの時間(2)〜鳥になって大空を舞う〜  
一昨日、まやはるこ先生のボイスアートのレッスンを受けに、梅田まで行きました。
この前の週末、フォーカシングのワークショップの前は、気持ちがちょっと穏やかでないところもあったのですが、この日はワークを受け終えた後の、穏やかでいい状態のままではありました。
いつも、時間の最初に「今日の時間に望むことは?」と聞かれるのですが、正直、その日は何かを望む気持ちはありませんでした。

さて。「お辞儀呼吸法」で、身体をほぐして。
立った状態で、まや先生が「ちょっと肩甲骨を意識して、両腕を動かしてみましょう」と声掛けされて。
「私たちの身体は、進化してきた過程を覚えていますから。両腕は、羽であった時代もあって…」
そして、羽ばたくように腕を動かして、離陸していったのでした。

私は思わず、「週末のフォーカシングのワークで、私は、鳥になっては飛べなくて。仕方なく飛行機の翼になってたんだけど…」と口走っていました。
でも、そう! こんな風に肩甲骨を意識したら、飛ぶように腕は動かせて。
そして、7月初めに旭川まで飛行機で飛んだ時に見た、離陸していくときの、家や木や町並みがだんだん小さくなっていく風景や、雲の上にいるときの、雲やら光やら…いろんな光景が思い出されてきて、気づいたら、私は空を飛んでいました。

まだ、飛行機から見た景色に縛られて、自分で旋回したりはできなかったのだけど。
でも、飛行機の翼ではなく、翼を持つ鳥になっていた…。

意識は自由に羽ばたかせることができるのですね。
子どもの頃、辛い時には「現実逃避」で、私は私でないものになっていたりしたけど、ボイスアートでは、私は私でないものになるのではなく、私自身が、できることを一つ増やすように「遊ぶ」ことができる。
そう! 子どもが今までできなかったことができるようになって、楽しみが増える感じ。
…実際に、私の中のインナーチャイルドも、キャッキャ喜んでいるのがわかる。

「現実逃避」だと、現実の自分を否定しているところがあって、「見たくないものを見ないように」目をそらしているから、どこか完全には楽しめない。いずれ終わって、あ〜あ…的な。
ボイスアートのイメージ・ワークは、そのものをそのまま楽しめる。
終わっても、「あー楽しかった! また遊ぼ!」という感じ。
…また、戻りたい時にいつでも戻ってこれる安心感とともに。

鳥になって空を飛ぶのは、フォーカシングのワークの積み残しだったんだ…!
…ということで、これも「未完了」が完了しました。

今度、飛びたい時に自分で飛べるというおまけ付きで。

画像は今年4月の終わりに葛城市で撮ったもの。
今度は、あの木のてっぺんを見下ろせる気がします。

フォーカシング
2017/08/03
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(5)  
2日目の、今回のワークショップとしては2回目のデモ・セッションがあり、シェアの時間の後、「フェルトセンスと感情の見分け方」の話がありました。
「怒り」は「怒り」のまま変化せず、「怒り」などの明確な言葉になっている。つまり、「感情」は単一焦点的なのだ、と。
それに対して、「フェルトセンス」は変わっていく。「怒り」と表現されていたものが「火山」になったり、「死火山ではなく休火山だった…活動するとは全然思っていなかったのに…」と表現されたり。

…今、打っていて、「フェルトセンス」は表現しにくいから、譬えになったりもするんだと気づきました。
一言で言い表せないような微細な感覚を、なんとか既存の言葉で表現しようとするから、譬えで描写するしかないことも多いのですね。
そのものとのキョリがある程度取れていないと、フェルトセンスにはならない、とまとめられました。

先ほどの「死火山ではなく…」はデモ・セッションでのフォーカサーの言葉なのですが、池見さんは、シェアの時に「(それを聞いて)脳細胞が興奮した…おお、まさしく『推進された“だった”』だ!と…」と言われていました。
体験過程で、「今の気づき」が「休火山だった」んだ…というように「過去を変えた」のですね。

30分ずつ各自でフォーカシングをするペア・ワークの後、「感情というのは、フォーカシングではどういう位置付けにあるのか?」という質問が出されました。

暫く考えた後、池見さんは「生きるプロセスの取り残された一部」と答えられました。
たとえば「怒り」は、本当は◯◯さんに理解してほしいのに、そうではない時に湧き上がってくる感情だったりして、それはその人ともっと豊かな関係を築く契機となったりする、と。
「有機体が語る語」という比喩もある、と。
あるいは、『セラピープロセスの小さな一歩』というジェンドリンの著作には「感情は相互作用を狭窄(きょうさく=せばめる)する」とある、とも。

池見さんから、たくさんのものが引き出せた、「いい質問」だったなあと思いました。

さて。残り2時間、となった時点で、デモ・セッションはあと一人、となって。
「セッションを受けたい人」に手を挙げたのは5、6人。公平にじゃんけんして、最後、二人となりました。
ああ!じゃんけんに勝てるかな? と思ったのですが、相手の方が私に譲ってくれました。(後で聞いたら、「気迫負け」したとのこと。…スミマセン…、私、必死の形相だったのかしら…)

「観我フォーカシング」をしましょう、と言われました。
これはある朝、池見さんが瞑想されている時に、ふと思いつかれたものだそうで。
自分のいろんなものを感じている部分に、感謝したり慈悲を送ったりするもの、だそうです。

私はまず、母が浮かびました。それから、その母に対している自分。それから、子ども。それから杏樹(アンジー)。
母に対している自分が「どんな様子をしているか」と言われて、…瞬時に、口をへの字にして、右足首を内側に折り曲げて、着物を着せられて突っ立っている3、4歳の女の子が出てきました。
ああ!と私の口から声が上がりました。
「これは私のインナーチャイルド!…やっぱり出てきたね…」
馴染みを紹介するように池見さんに描写して、…そうそう、母と対していると私のインナーチャイルドが刺激されるんだわ、と自分で確認していました。

池見さんは、フォーカシングでは用いない「ザブトンを置く」ことを、私には勧められたので、(ザブトンを置くということは、そこに、該当する人を置くことなので)イメージし易かった、と思います。
(後で、なぜザブトンを用いたかの質問には、ゲシュタルトをやってる人はザブトンは使い慣れているだろうから、ということでした。)
母や子どもや、それらとのキョリ感も、私がザブトン置く位置で、池見さん自身視覚的に捕らえられた、と思います。

母とのあれこれ、私の中に生まれる葛藤…そんなことをつらつら話しました。
すると…池見さんは、「では、それに『慈悲』を送りましょう」と声を掛けられました。

「私が健やかで幸せでありますように。
私が苦しみから解放されますように…。」

「慈悲の言葉」はこういう言葉なのですが、実はこの言葉は、私は馴染みがありました。
いつだったか…10年ぐらい前に、アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ仏教界長老の著書『自分を変える気づきの瞑想法』の中で出会った言葉でした。でもこれは「グィパッサナー瞑想法」の2、3千年前からの「慈しみの言葉」なのですね。

その言葉を何回か繰り返しているうちに、私はじんわり涙が出てきました。
が、なんだかフォーカシングはワアワア泣いてはいけない気がして、静かに留めていました。
そして、母へのざわざわ感は、次第に収まっていきました。

私の中にある、様々な感情。
それら全てを引っくるめて、「健やかで幸せでありますように」「苦しみから解放されますように」。
これは、「祈り」の言葉ですね。
万事手を尽くして、それでもどうにもならない時には、祈るしかない、と思う時があります。
祈りは、「困った時の神頼み」というような安易なものではなく、切実な願い、である気がします。

「慈悲の言葉」を繰り返しながら、「…そうよね…。出来るだけのことはしているよねえ…頑張ってやってるよねえ…私。それでも上手くいかないのなら、それはもう神さまにでも仏さまにでも、お願いするほか手がないよねえ…。」なんて、自分を認めつつ、あとは委ねる気持ちになっていました。
…これが心を穏やかに、心に平安をもたらすのでしょうか…?

心穏やかになった状態で、私の「観我フォーカシング」は終わりました。

時折、池見さんの方を見ると、目を閉じていらっしゃること2回ほど。
でも、セッションに参加していた人からすると、ほとんど目を閉じていらっしゃることがなかったそうです。
…とすると、稀な瞬間にコミットしたのでしょうか?

池見さんは穏やかで…私が自由にあれこれワークするのを一緒にその場にいてくれた、ような感じ。
「慈悲」を送る声掛けも、絶妙なタイミングだった…気がする。
母に対する感情、それに反応する私自身に対する苛立たしさ、に入る前の、クールダウンさせるかのようなタイミングで。

「寄り添う」ってこういう風なのをいうのですね。
微細な私の心の動きを感じ取って、必要なものを必要なタイミングで差し出す。
それでいて、自分に無理がない状態でいること。
確かに。毎朝の瞑想は必要だわ。
ワークショップがその関係で午後からになっても、仕方のないことだったんだ…。

あっという間の2日間でした。ですが、とても濃密な時間でした。
1年半前の私の「未完了の問題(unfinished work)は、完了しました。

画像は、最近「先生、結婚したよ〜」と幸せそうな写真を送ってきてくれた教え子に送った、お祝いのプリザーブドフラワー。

フォーカシング
2017/08/02
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(4)  
最初のセッションの後、「クリアリング ア スペース」の説明がありました。
「クリアリング ア スペース」とはフォーカシングの技法の一つなのですが、どこから来たものかはわからない、と言われました。
フォーカシングが影響を受けた「現象学」では「括弧に括る」というそうです。
つまりは、いろんな「気がかり」から間を置くこと。
「間が置けない人を『間抜け』と言うんですよ」という余談付きの説明に、なるほど! と一同うなづきました。

「クリアリング ア スペース」のやり方(いろんなやり方があるうちの1つ)

1 「そのことを思うと、どんな感じがするか? 感じてみて」と「ことがら+感じ」を出してもらう。(フェルトセンスとして感じてみる)

2 「そのことを、ちょっとの間、置いておくとしたら、どこがいいでしょう?」と、ちょうどいい場所を見つけてあげるよう促す。見える場所の方がいい場合もそうでない場合もある。「捨てる」類いはいまくいかない。たとえば、海に捨てたとしたも、また、海岸に打ち上げられたり、と返って来たりする。どんな感情も「自分の気持ち」だから大切に扱う。(適切なキョリを見つける)

3 「他にありますか?」という声かけで、次々と自分の「気がかり」に対して、適切に置ける場所を探していく。

「どうしても置けない場合は、どうすればいいですか?」という質問がありました。
その場合は「置けないことに気づく」ことが大事で、「それを置けない自分はどんな自分?」と「観我(かんが)」に向かうか、「それはどこに行きたがっていますか?」と「もの」に主導権を渡す。
それでも置けない場合は、「そんな気持ちがあったことに気づいておきましょう」と「置けない」自分を受け入れる。

「クリアリング ア スペース」を行うと、出してもらう「ことがら」の、具体的な中身が問いかける人にわからなくても、その「ことがら」を出している人は、それとのつきあい方が変わるので、問題そのものが変わる。
つまり、「悩み」とは「悩むこと」ではなく、それとのキョリが取れないことが問題なのだ、と。

「クリアリング ア スペース」とは、「心の中を片付けて、空間を作ること」である、と。
高野山でも「悟りを開きたい人は部屋を片付けなさい」と言われるそうな。で、実際に部屋の片付けをするそうです。
心理現象と物理現象は繋がっているのだな、と思いました。
確かに。散らかった部屋にいると心が荒んでいくし、精神衛生上も良くないんだ、と。

「クリアリング ア スペース」を初めて私に教えてくださったのは有村凛さんでしたけど、その時は画用紙を使って、でした。
私は、視覚化されるこの方法が、結構気に入っているのですが、画用紙がない場合でも「クリアリング ア スペース」が出来るんだなあ、というのは発見でした。
イメージ化が苦手な人には、視覚化できる方がやりやすいかもしれません。
人にもよるし、状況にもよるんですが、やり方が増えたのは嬉しいことです。

さて。初日はここまでで、2日目の最初の時間に、ジェンドリンの「フォーカシング 6ステップ」の説明がありました。

ジェンドリンの「フォーカシング6ステップ」

1 「クリアリング ア スペース」
2 フェルトセンス
3 ハンドル(見出し・手がかり)表現をみつける
   (ハンドル表現=この言葉で表現すると、なんとか全体がつかめる、という言葉)
4 ハンドル表現をリゾネイト(響かせる・確保する)する
5 (理解のための)問いかけ(6つ)(「もやもや」はフェルトセンスの例)…その場にふさわしいものを選んで使う
   ① この「もやもや」はあなたに何を伝えているのでしょうか?
   ② この「もやもや」はいったい何でしょう?
   ③ その状況の何が「もやもや」みたいなのでしょう?
   ④ この「もやもや」は何を必要としているのでしょう?
   ⑤ この「もやもや」とかけて、その状況ととく、その心は? (なぞかけ)
   ⑥ 「もやもや」と一緒にいましょう。何か浮かんできますか?
6 受け止める

この6ステップは直線的に進むのではなく、2→5については、何回かグルグル回るイメージ。
そして、この2→5のサイクルを回すことが大事で、うまく回らない時に、「5」の6つの問いかけがあるのだと。

フェルトセンスが強い感情となってきたら、少し遠ざける。
その時の声掛けは「ちょっと遠目に見てみましょう」。
他に…「この辛さは、私にとってどんな意味があったのだろう?」「この辛さはあなたに何を伝えたいのだろう?」などの声掛けで、サイクルが回る、と。

内省力が弱い人には「プレセラピー」が必要である、とも言われました。
「感じること」を予め、「教育する」のだそうです。

池見先生は『傾聴 心理臨床学 アップデートとフォーカシング』という最新のご著書(2016年3月)のpp.130-131をコピーして配布してくださったのですが、そこには「5つの問いかけ」が記載されていました。
…つまり、出版されてから、この半年足らずで、6つ目の問いかけが増えたのですね。
常に「より良いもの」を求める、先生の姿勢を感じました。

さすがに、今日はここまで、でしょうね。
画像は2日目の池見陽氏。グラサン・短パン姿での登場にちょっとびっくり。

フォーカシング
2017/08/01
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(3)  
前回は、アニマル=クロッシングというペア・ワークが私の中でどのように進行していったか、についてレポートしたところで終わりました。

そのペア・ワークを終えたところで、次の「デモ・セッション」に入る前にフォーカシングについての説明がありました。
フォーカシングでは「凍りついた全体性」という言い方があり、それは「構造拘束」を意味する、と。
(「構造拘束」という言葉自体が馴染みのないものだったので、調べてみたら、ジェンドリンが1961年に、「2つに分類される体験様式」の1つである、とし、それぞれが精神健康に異なる影響を及ぼす、としたもの。
「ネガティブな体験内容が反復し、暗黙の機能が停止している様式」と定義される。ちなみにもう一つは「過程進行中の体験様式」)
ゲシュタルト療法で近い概念は「凍りついた炎」。

以下、ゲシュタルト療法とフォーカシングの違いを際立たせるような話が続きます。
それは、ゲシュタルトとフォーカシングの違いは何なんだろう? と思う私にとって、とても刺激的なことでした。

フォーカシングにおいて、聴く側は追体験する。(池見さんは「共感」という言葉に違和感をお持ちで、「追体験」という語を用いる、と言われました。)
それは、言い換えると「受容的で共感的で、自己一致している状態」。

そして、「再帰性」が起こる。
それは、言葉にした途端、違和感を感じて「そうではないことがわかる」こと。
たとえば、「私はキリンです」といった途端に、いや、そうじゃない、とわかって、別の「何か」を探り始める…ことの連続で、アニ=クロは進んでいったのではないか、と。

「リフレクション」(=相手の言った言葉をそのまま伝え直すこと)は、「傾聴」して「受容」していることを意味するのではなくて、「再帰性」を確認するためにあるのだ、と。
つまりは、「あなたの言ったことを私は聴いていますよ」という意味ではなく、「あなたは◯◯と言いましたが、その言葉でしっくりきますか?」という確認しているのだということ。

…これは、衝撃的でした。そうなのか、と。そうか、「おうむ返し」じゃダメなんだ、と。
この確認過程が、「一緒にあなたのモヤモヤ(=言葉にしにくい、フェルトセンス)の正体を探っていきましょう」になるのか、と。

「何かワザを仕掛けていくのではなくて、その人の中にフォーカシングが起こるように、一緒に考えていく」のだと言われました。その人の中に答えはある、その人の感じる中にヒントがある、という立場はゲシュタルトと変わらない、と。
自分の問題にならないと解決しないので、解決してあげるのではなく、一緒に考えるのだ、と。
だから、できるだけ、まだ言葉にならないところを探るのだ、と。

そしてデモ・セッションに入りました。

セッション後に、3つのことを話されました。
1つは、「掛け合わせて考える」ということ。
セッションの中で、「掛け合わされた」ものは、池見さんと、(セッションを受けた)フォーカサー。
途中、池見さんから「蹴散らしたいんだけど、全然そんなことを考えてもないように座っているんじゃない?」という言葉掛けがあったのだけど、これは、外れてもいい、掛け合わせたらどうなる? という気持ちが池見さんにあったそうです。

一見、「ワザを仕掛ける」風にも見えますが、セッションをしていて、池見さんに自然に湧き起こってきたことで、それに対して素直に「自己一致」させて出てきた言葉なんだろう、と受け取りました。
そしてそれはアニ=クロでも同じで、あのワークは何をしているのかというと、動物と自分を掛け合わせて考えているのだ、と。
…それは、自分の状態を捉えようとする「過程」(=プロセス)なのですね。

もう1つは、「推進された“だった”(Carried foward “was”)」
体験過程で、過去がクリエイトされる(創り出される)ということ。
今の気づきが過去を変えるということ。
ああ、そうだったんだ…と、過去の持つ意味が変わるのですね。

もう1つは、「体験的キョリ」。
近すぎても遠すぎてもダメで、近すぎると感情が先立つし、遠すぎると何も感じない。
だから、セッションでは遠すぎると近づけるようにするし、近すぎると遠ざける。
「今のイライラ」にこだわるのではなく、その先にあるものを見る。
つまりは、インプロセス(=進行中)であることが大事で、セッションはプロセスが止まっているか動いているかを見る、のだと。
インプロセスは仮設の連続で、仮説は常に動く、と。

シリーズ5回で終わる予定が…終わりそうにない不安を抱えながら、ひとまず今日はここまで。
(初日のまとめが、まだ終わっていません…)

画像は富良野の富田ファームで見かけたハンギングバスケット。
あれかこれか、ちょうどゲシュタルトとフォーカシングを釣り比べているようで、選びました。

カウンセリングルーム 沙羅Sara

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。

明けない夜はありません。

電話番号:090-7594-0428

所在地 : 生駒市元町2-4-20 

営業時間:10:00〜19:00

定休日 :不定休

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