2020年11月13日の「折々のことば」。斎藤純一の言葉。
恐れなければならないのは、アイデンティティを失うことではなく、他者を失うことである。
鷲田清一の解説。
社会のみならず個人の生もまた、おのれの内に葛藤や抗争を宿した複数のかたちをもつ。
単一の価値に凝り固まれば、私たちの思考もまた機能不全に陥ると、政治思想史家は言う。
「他者を失うということは、応答される可能性を失うということ」でもあるからと。
人びとの間に、自己自身の内に、激しい分断が起こるときにかならず思い起こすべきことであろう。
『公共性』から。
写メを撮っておいた鷲田清一の「折々のことば」を、久しぶりに見る。
全部を残したわけではないけれど。
見かけて、ちょっと心に残ったものだけ。
その中でも。今朝は「アイデンティティを失うことではなく、他者を失うこと」を恐れよ、という言葉が目に留まった。
うーん。巷では。
アイディンティティを失うこと、の方が取り沙汰される、かな。
自分が自分らしくあらねばならない、とか。
一本、筋が通っていなければ、とか。
うん。まあ、それも大事。
でも、それが行きすぎると。
独善になる、か。
…「行きすぎる」って。何?
頑なに、それだけを追い求める、感じ。
まあ。余裕がないんだね。
余裕は。どこか、何かを追い求める自分を客観的に観る目があるか、というところ。
ものごとを俯瞰して観る、とか。
まあ、それが、「他者」なんだろう。
「他者を失うということは、応答される可能性を失うということ」。
おお、そうか! と思う。
そうね。「応答」がなくなり、自分の内だけで完結するならば。
それは、そのうち「腐って」いく。
ものごとは。生体と同じで、「風通し」が悪くなると、腐っていくような気がする。
たぶん。ずっと同じ状態ではいられない、ので。
「風を通す」ことで、常に新鮮な状態を保っていられるのだろう。
「風を通す」のは、ここでいう、他との「応答」。
ああ、そうね。ここでも「無常」が響いてくる。
ものごとは変化する。
その変化の中で生きようとするならば、「日々新た」を積み重ねるしかない。
閉じないでいること。
閉ざさないでいること。
開かれた状態を望むこと。
それを「アイデンティティ」に据えればいいのだ、と思う。
画像は、今年の「お誕生日会」で、「喫茶みりあむ」にお泊まりした時に撮った、キッチンの窓辺。