夜明けが早くなってきた朝。
久しぶりに『深呼吸の必要』を開く。
…本当に。久しぶり。
「元気にしてた?」なんて声かけを本にする。
「あ、うん。私は元気だよ。いろいろあるけど。」
本の中の登場人物に話しかける、というのはあっても、
本そのものに声かけするなんて、初めて。
この歳になって。「初めて」があるなんて。
ちょっと嬉しい。
まだまだ「未知なる世界」があるんだな、きっと。と思えるので。
「路地」 長田弘
路地。または露地とも書く。街なかにあつ
まる家々のあいだをぬける通り道。たがいの
軒先をとおってゆくような道の両がわの玄関
先に、鉢植えの花がでている。そのむこう、
ブロック塀のうえを花台にして、いくつもの
鉢植えがならぶ。春には桃の花。夏の朝顔。
サボテンの花。秋は真っ青な桔梗。あざやか
な花ばなが、ひっそりとした路地を明るくし
ている。
そこに花ばながおかれている。ただそれだ
けなのに、花ばなのおかれた路地をとおりぬ
けると、ふっと日々のこころばえを新しくさ
れたようにかんじる……おたがい、いい一日
をもちたいですね……ふっとそんな声をかけ
られたようにおもう。花ばなをそこにおき、
路地をぬけてゆく人びとへの挨拶を、暮らし
のなかにおく。誰もいないのだが、花がそこ
にある。そんな路地の光景が、好きだ。
一番最初に目についたのは「こころばえ」という言葉。
「心映え」という漢字表記ではなく、ひらがなで「こころばえ」。
そういえば、詩の言葉を打っていて。平仮名表記が多いことに気づく。
「あつまる」「とおってゆく」「むこう」「あざやかな」「おもう」「ぬけてゆく」。
「花々」ではなく「花ばな」。
「人々」ではなく「人びと」。
踊り字(=「々」)を用いると、何か、塊でものを見るような。
一群の、花。一群の、人。
「花ばな」とされると、個々の花をひとつひとつ、丁寧に見ていくような。
「人びと」も、そう。ひとりひとりの人間が、そこに立ち現れる、ような。
「こころばえ」。
デジタル大辞泉には
「こころ‐ばえ〔‐ばへ〕【心▽延え】
《「ばえ」は心の働きを外部に及ぼすことの意》
とあって、その意味として次の4つが挙げられていた。
1 心の状態。心の持ち方。気だて。「心延えの優しい人」
2 思いやり。配慮。「そのほどの—はしも、ねんごろなるやうなりけり」〈かげろふ・上〉
3 おもむき。味わい。風情。「水の—など、さる方にをかしくしなしたり」〈源・帚木〉
4 趣意。趣向。「扇どもあまたさぶらふ中に、蓬莱作りたるをしも選(え)りたる、—あるべし」〈紫式部日記〉
まあ、古語だわね。
そうか。もともとは「心延え」と表記するのか。
「心の働きを外部に及ぼすことの意」であるならば。
「映え」の表記は、やはり「心の状態の反映」の意味で、だろう。
この詩の中では「心の持ち方」の意である気がするけど。
こころは。少しのことで上下するものだから。
路地の花ばなを目にすることで、そこに水やりの水滴が残っているのを見るだけで
なにか、丁寧な暮らしをそこに垣間見るようで、
だからたぶん、「こころばえ」を新しくされたように感じるのだろう。
(あ、私、今「多分」と自動変換されて、ちょっと違うな、と思ってひらがな表記に変えた。)
ひらがな表記は。なんというか…ゆっくりとした心の動きにともなって、
ゆっくりと、その段階を味わうように感じられる、からかもしれない。
「春には桃の花。夏の朝顔。サボテンの花。秋は真っ青な桔梗。」
…そうね。今頃の季節は、立葵が咲き始める、ような。
私も路地は大好きで。
朝の杏樹(アンジー)との散歩に、一眼レフのカメラを携えて、おでかけする。
朝の凛とした空気。光のゆらぎ。
その角を曲がれば、人が通るぐらいの狭い道に溢れる花ばな。
画像は、2017年に母とアンジーを連れて訪れた、尾道の路地。