番組では最初に、沖縄本土復帰運動のシンボルとなった「沖縄を返せ」の歌が流れる。
歌う、民謡歌手の大工哲弘さんが映される。
「返還後の現実を見て、大工さんは歌詞を一文字だけ変えて歌うようになった。
『沖縄を返せ』から『沖縄へ返せ』。
帰るべき場所は日本ではなく沖縄自身ではないか、と」。
その言葉の鋭さに私は凍りつく。
「沖縄返還協定が批准される『沖縄国会』で、佐藤栄作首相の演説中に起きた事件。
国会の傍聴席にいた若い男二人女一人が次々に爆竹を鳴らし、ビラをまき、『沖縄返還協定粉砕』を叫んだ」。
「3人は現行犯逮捕された。逮捕された3人は、いずれも沖縄出身だった。」
「沖縄青年同盟という組織に属していた。
沖縄がまだ米軍統治下にあった当時、渡航証明書、つまりパスポートを携えて、大学進学や集団就職で渡った青年たちが集う組織だった。
当時、本土の一部では、沖縄出身者に対する差別や偏見があった。
飲食店の中には、沖縄の人、お断り」の張り紙をしたところもあったという。
そうした経験を共有した若者たちは、本土復帰が果たして良いことなのかどうかを疑った」。
「国会爆竹事件に直接関わった当事者に会うまでには、かなりの歳月を要した。
3人のうちのひとりが、事件から51年を経て、初めてテレビのインタビューに応じた」。
沖縄県在住の本村紀夫さん。73歳。
「ヤマトに行って、一番感じたのは、自分、本当に素直に、沖縄は戦争で犠牲になって、日本人は沖縄のことをよく理解していて、『大変だな』って言ってくれるだろうと思ったら、全く違う世界。」
「よく言われる、『日本語、上手いね』とか、『英語しゃべれるの?』とか、これ本当に追求してくる。
だんだん、だんだん、怒りが増してきて、なんなの?っていう話になっていく中で、(他の二人と)知り合った、というか。何かをしなければいけない、と」。
当時、沖縄青年同盟のリーダーだった、沖縄県那覇市在住の仲里渉さん。75歳。
「全ての在日沖縄人は団結して決起せよ」という事件当日にまいた声明文(ビラ)の文面を書いた。
金平キャスターは問う。
「仲里さん、『在日沖縄人』という言葉を使われましたけれども、そういう意識があった」
「そうですね。」
「要するに、日本から『他者』としての扱いを受けたという、おまえたちは、日本の、本当の日本ではなくて、『他者』なんだ、という、そういう扱いを受けた」
「そうです。『他者』として日本から扱われる、見られる、いわゆる眼差しの政治、というかそういうものがありますけれど、逆に、自ら、選び直していく、自らの主体を創り直していく、創造していくという意味も込められて、『在日沖縄人』というのがあるわけですね」。
3人は起訴され、東京高裁での初公判を迎えた。法廷は日本の裁判史上、前代未聞の出来事が起きて、大荒れとなった。
3人の被告全員が日本語を使うことを拒否し、沖縄の言葉、ウチナーグチで裁判官の質問に答えたのだった。
「日本語で話しなさい」という裁判官に「沖縄は日本ですが」とウチナーグチで応答する、再現シーン。
「沖縄は日本ではないのか?」という被告のウチナーグチが、法廷に虚しく響く。
被告の弁護人の「沖縄語で話したいので、通訳をつけてください」に対して、「法廷では、日本語を使用するのが原則であります」と答える裁判官の再現シーン。
「日本語とは、どういう言葉を指すのでしょうか?」という弁護人の問いに答えられず、短い休憩に入る法廷。
再開後、「日本語とは、広く一般に通用している標準語の意味です」。
「裁判所としては、被告たちが、標準語を使えると判断している。標準語で話しなさい。」
「どうして沖縄語を使ってはいけないのか」とウチナーグチで発言する被告たちに、裁判長が発した言葉は「法廷の秩序を維持できないので、退廷を命じます」。
恐ろしいほど傲慢な。
しかし。この「報道特集」に対するTwitterでも、「違法行為はダメだろ、おい」とか「#TBSクズ」が存在することに、暗澹たる思いになる。
「違法行為」と言ったとて。人を殺めたわけでもなく、大怪我をさせたわけでもなく。
それ以前に、どれほどの言葉で被告たちの尊厳を傷つけてきたのか、ということに思いを馳せられない、日本人の貧しい状況に愕然とする。
…日本の教育は、何をどこで間違った?
「自分の仕事は何々です、と彼女がウチナーグチで喋った時に、裁判長が動揺しちゃって。何を言ってるかわからないというのは、人間にとって大変なことだと思うんだけど、もう目を真っ赤にして固まって、『日本語で喋りなさい』『日本語で喋りなさい』って。」(本村さんの言葉)
傍聴席から退廷させられた仲里さん。
「日本語を使えって、裁判長は言うわけです。この法廷空間で、沖縄語に対する、日本語を使いなさい、という、法廷空間自体が、日本の近代の縮図を現しているわけですね。」
「日本国家、なぜ沖縄の言葉が禁じられなければならないのか」
この初公判の模様を報じた、地元新聞「沖縄タイムス」を今読むと、被告たちに対し、冷ややかな視線が注がれていたのがわかる。ところが、その「沖縄タイムズ」も徐々に論調が変化していく。
当時(1971年)、那覇簡易裁判所の書記官だった仲宗根勇さん。81歳。
「沖縄タイムス」にコラムを書いていた。
同じ裁判所の職員でありながら、強い憤りを感じていた。
「彼ら沖縄青年同盟の、意表を突く行動のパターンは、小気味良いほど、私たちの慣れ切った固定観念の臓腑をえぐる。私たちの首に方言札をぶら下げて、人格的な欠落者の如き眼差しで見つめていた」(コラム記事からの引用)
「方言札」とは、標準語を使わせるため、方言を話した者に罰として首から下げられた札だ。
「方言札」。調べてみたら、「goo辞書」に
「標準語の使用を強制させるため、学校で方言を話した者に、罰として首から下げさせた木札。各地にあるが、特に沖縄で厳しく行われ、明治末から第二次大戦後まで用いられた。」
とあった。「特に沖縄で厳しく」。そうなのか。
(仲宗根さんの言葉)
「裁判始まって、日本語使えって言う。ところが裁判所法の47条の条文ですかね、あれを盾にとって、沖縄方言で対処やった連中を、裁判所が権力的に退廷命令まで出して、やってるというのは、やはりおかしい、と。」
「通訳をつけるべきだった、と」(金平キャスター)
「そうです。琉球方言の、ね。」
「それを退廷させるっていうのはおかしいと」
「それはもう全く、事案の真相を明らかにしようとする気持ちが全くないわけですよね。」
51年前の国会爆竹事件。そしてウチナーグチが排除された裁判。
今の沖縄のありようと私たち日本人に、いったい何を問いかけているのだろう。
「50年前にああいう行動を起こしたことは、やって良かったと思いますか?」(金平キャスター)
「良かったか悪かったか、という言い方がいいかどうかはわかりませんけれども、あれはいわば沖縄の青年たちの、ある意味では、歴史から呼ばれた、歴史を呼ぶ、言わばある意味、必然的な、不可避的な行動だった。
偶然に行動が起こった、ということじゃなく、沖縄の転換期における、ある沖縄の青年たちによる、不可避的な行動だったと思うし、そういった意味では、良かった、というふうなことが言えるかもしれませんね」。
「見て見ないふりをすると一生後悔するっていうようなことってあるでしょうか? おそらくそういうものに近いもので、突き動かされたのではないか、と想像するんですが」
「その突き動かしていくものが何なのか、ということは、たとえば沖縄にこういう言葉があるんですね、『ウチナーマンガタミー』。
『ウチナーマンガタミー』とは、沖縄を丸ごと背負い込む、とか、過剰に背負い込む、という意味ですけれどね。
これは沖縄の、言わば、若者たちがある行動を掻き立てていく、駆り立てていく、意志のありようみたいなのがあるわけで、沖縄に捕まれる、沖縄に過剰に捕まれる、というふうな言い方をするわけです。
それが何なのか、ということなんですけど、やはり、沖縄の歴史であり体験であるわけで。」(以上、仲宗根さんの言葉)
「僕は日本の政府だけじゃなくて、国家権力だけじゃなくて、日本人の中にも沖縄は、…どこまで思っているかは知りませんけれど、植民地的な感覚でないのかな、と思う。だって、なんでこんなに沖縄だけに集中して、たとえば、辺野古唯一って、なんで唯一なのかって誰もわからないし。」
「今、僕が問われるのは、怒りはあるけど、怒りよりは、沖縄人はもっとしっかりしろよ、というのが僕の今の状況。」
「地位協定でもがんじがらめになって、ますます沖縄、何もできない状況に、今なっているわけだから。50年経っても何も変わってない。」(以上、本村さんの言葉)
残り二人の事件の当事者たち。真久田正さんは既にこの世を去った。享年63歳。
海が好きで、ヨットの仕事をしていたが、最後の最後まで、「日本人に沖縄の運命を決定する権利はない」と言い続けていたと言う。
そしてもう一人の女性は、この当時の仲間たちと一切の関係を絶っているという。
ベトナム反戦運動などに関わった、社会運動家の武藤一羊さん。90歳。
当時、この事件の直後から、被告たちの支援に当たった。
「沖縄とは、1945年以来、何であったか、というと、アメリカの軍事植民地だったわけですね。
これは非常にはっきりしているわけで、アメリカの領土ではないんですね。
だからね、アメリカの言うことに逆らえない、逆らうことは勿論できない。
そうするとですね、どうするかというと、アメリカの言うことをそのまま受け入れる。そして基地の管理は任せてください、ということになるわけです。
それがどうしてできるのか、というと、沖縄が植民地だったからです。」
「かつて、琉球処分以来、日本帝国の植民地だった。
その植民地の関係を復活させる、つまり、国内植民地として扱う、そういうことによってアメリカの願いというものを達成させることになったと思う。
だから二重の植民地支配なんです。
いわゆる爆竹事件って言われているものですね、今から見れば、明らかに、その一番の『恥部』、一番の隠しているところを、国会の場で、傍聴席から一挙に表に出した行動。それが爆竹事件なんです」。
「国内植民地」!
ならば。福島も六カ所村も。そうとも言えまいか?
4年前。辺野古の新基地建設反対の意志を貫きながら、在任中にこの世を去った翁長雄志前沖縄知事。
彼が生前好んでいた歌がある。「ヒヤミカチブシ」。「ヒヤミカチ」とは、えいっ!と気合いを入れるという意味だ。
あの戦争で、今のウクライナ以上に徹底的に破壊し尽くされた沖縄。
その沖縄を励ます歌として、今も歌い続けられている。
この後「ヒヤミカチブシ」の歌が流れ、沖縄でのこれまでの事件が列挙されていく。
・沖縄戦(1945年) 死者20万人
・ベトナム戦争では出撃基地に。
・コザ暴動(1970年)
・3米兵による少女暴行事件(1995年)
・沖国大に米軍へり墜落(2004年)
・オスプレイ墜落(2016年)
・機動隊員が「土人」と発言(2016年)
・辺野古の新基地建設強行
・有機フッ素化合物(PFAS)による環境汚染
当たり前に、自分の存在を対等に認めよ、という訴え。
上に立つ、のではない。同じ目線で、自分の存在を認めてほしい、という当然の願い。
なんで、この状態を放置したままにできるのだろう、と痛みを感じる。
私にできることは何か。
考えようと思う。
画像は、この前桃月句会の会場の松前旅館で見かけた木の像。
寄り添うのは難しいけれど、まずは心を寄せていく、ことから始めたい。