折々のことば。2024年1月31日の山根基世(もとよ)の言葉。
声っていうのはね、耳に届くんじゃないんですよ。肌から心に滲(し)み込むんです 山根基世
鷲田清一の解説。
話しあえば何かが分かちあえるというのは大きな間違いじゃないかと、NHKの元アナウンサーは言う。
人との語らいの中で大切なのは聴きあうことだと。
主張をぶつけあうだけだと、相手にふれることなく終わる。
聴く側の「聴こう」とする姿勢があってはじめて、相手から言葉が零(こぼ)れ落ちてくる。
言葉の肌理(きめ)がこちらの「肚(はら)の底」に沈む。
『こころの声を「聴く力」』から。
そうね。確かに。
その場に一緒にいても、相手がひどく遠くに感じられる、ことがある。
相手の言葉にざらついた感触を感じ、その居心地の悪さに、つい、そのまま受け入れるのを拒み、
それで相手の言葉がすんなりと入ってこない、とか。
逆の場合もある。
自分の言葉が、相手にすんなり入っていかなくて、
…いや、むしろ、相手に届く前に失速して、相手の身体の周辺にすとんと落ちていく、のを感じたり。
本当に。これまで、言葉が「届かない」のを感じたことがどれくらいあったことか。
「人との語らいの中で大切なのは聴きあうこと」と言われてみて。
初めて、ああ、そうか。相手に自分が開いてなくて、そして、相手も私に開いてなくて。
だから、失墜してたんだ、と気づいた。
相手の、そして私の身体の周辺に転がっている、無数の「届かなかった」言葉たち。
その残骸は痛々しい。
なぜかというと、それを拾い上げたとしても。
そこからどんなふうに繋いでいったらいいのかわからずに、途方に暮れるばかりで。
「間違って」しまった時の、修正は難しい。
だから、細心の注意を払って、相手に向き合う。
できるだけ、フラットに。そして、じっくりと。「聴く姿勢」を作る。
確かに、そうした時に「相手から言葉が零(こぼ)れ落ちてくる」。
何かを意図して、ではない「呟き」が、ピタリとピースにはまるような的確な言葉が、「零れ落ちてくる」。
…それは、至福の時、だ。
「言葉の肌理がこちらの『肚の底』に沈む」のは。
だから、耳で聴くのではない。全身で「その言葉を受け止める」んだ。
…わかるような気がする。
そんなふうにして。私も、言葉を聴いてきたから。
だから、酷い言葉を投げつけられた時に、その直後、実際に吐いたことが、ある。
これまでの人生において、2度。
まあ、ね。
厄介な自分と付き合っていくしかないから、ね。
今さら、こんな神経過敏な自分を変えることもできないし。
まあ、いいや。いいことも、またあるだろう、と思い直して。
「肌から心に滲みる」って。「滲みる」という字がなんか、じわじわと浸透していく感じがよく伝わって。
しみじみと味わったのでした。。
画像は、今日の午後、奈良公園に出掛けて撮った梅。
…なんというか、手を伸ばして、何かをつかもうとするかのような枝振りが、「見えない」心をつかもうとするかのように見えたのでした。