折々のことば。2025年1月23日の鶴見俊輔の言葉。
真理はひとつ、これだ、と言って自分の中にあるものを示す説き方に、私はうたがいを持つ。 鶴見俊輔
鷲田清一の解説。
生徒が違った答えをした時、間違いを指摘し、唯一の正答へ導こうとする教師と、そこに「別の問題への芽ばえ」を感じ、問いの別の途(みち)をともに歩もうとする教師がいる。
問いはいろいろな形に成長し、枝分かれしてゆくもの。
真理を囲い込まずに、間違いをどう活(い)かすか考えるほうが望ましいと哲学者は語る。
『教育再定義への試み』から。
これを見たとき、すんなりと、「それはそうじゃない?」と思った私がいた。(ので、迷わず写メを撮った。)
だって。「違った答え」って。おもしろいじゃない?
なんで、そんなふうに考えるのか。頭の中を覗き込みたくなる、じゃない?
そこにあるのは。自分とは異なった発想をする人間に対する、限りない「興味」だと思う。
どうやったら、そんな「とんちんかん」(! でも最初に感じるのはそういうの、でしょ?)な答えが出てくるのか。
何をどう思うから、そういうふうな答えが導き出されるのか。
その思考回路って、自分にないからこそおもしろい。
で、聞いてみたら。
なるほど、そこでそういう発想に立つから、こんな答えになるのか! の発見があって。
人はどんなふうにものごとを理解するのか、の道筋が「一筋縄」でいかないことがわかって、おもしろい。
で、そういう過程で、人の誤解を招く回路には、どういう経路があるのか、がわかって、
人間は、どういう発想をしがちか、がわかっておもしろい。
そうそう。それは、やはり人間に対する限りない興味、なのだと思う。
私も。私自身も、とんでもない時にとんでもないことをしでかすから。
そして、その「とんでもなさ」を一緒に笑い転げたい、から。
いったい何がどうなって、こんな「答え」になるのか、を解明したいのだと思う。
まあ、つまりは。
楽しみたい、んだろうね。その「間違い」方を。
人に対する限りない興味は。
私の、私に対する限りない興味から派生したもの、なんだろう。
母が期待するような反応をしない子どもだったから。
そして「変な子ねえ」って言われても。変えようもなかった、から。
身近な大人に理解されない子どもの、どうしようもない悲しみを、早くから抱えた子どもだったから。
せめてもの、「笑い転げる」方向に持っていくことで、この世界に存在していていい実感を持ちたかった、んだろう。
…ものごころついた時から、この世界には「違和感」しかなかった、ものだから。
(谷川俊太郎のいう「二十億光年の孤独」とまではいかないにせよ。)
そんなことを考えた。
そうね。子ども時代から既に「サバイバル」でしかなかった訳だけど。
まあ、そんな歩みが今の私を創ってきた、と思えば。
それはそれでいとおしい。
そんなことを考えた、今回の旅行で、広島で迎える最後の朝でありました。
広島は私が25年を過ごした第二のふるさと。
人と会う時間も、ひとりでいる時間も。
どちらも私にとって必要な時間なんだと実感しました。
画像は、昨夜9年振り以上前(うーん。多分、17年振り、ぐらい)に会った元同僚と一緒に飲んだ時に飲んだお酒。
「Kaki Syuwa」って、何? と思ったら。日本酒を炭酸で割ったもの、でした。