折々のことば。2024年6月8日の松村一志の言葉。
専門家を盲信するのでも、拒絶するのでもなく、うまく疑うことが必要になる。松村一志
鷲田清一の解説。
地球が球体でなく平面であると信じる、陰謀論めいた物言いが一部で広がっていると、科学社会学者は言う。
科学の推論でなく人の経験にだけ訴えるので、オープンで「民主的」な議論にも見える。
が、内実はそう判断する自分自身の「過信」であり、科学を生み出した社会的プロセスの重みをこそ否定するものだと。
論考「生き残る地球平面説」(「中央公論」6月号)から。
ふうん、そうなんだ。「地球が球体でなく平面である」と信じる人たち、いるんだ。
それじゃあ、月から撮影した「青い地球」も。偽造されたもの、とみなす、のね?
まあ、ね。そんな話、以前に聞いたこと、あったよ。
それこそ。先のコラムで取り上げたけど、自分の「現在位置」を知るために、
「地図とコンパスを使って「方向」を探ることと、地図を自分のここから読むその偏向を補正するために、全体を俯瞰(ふかん)し「平衡」を図ることが必要」ってこと、だけど。
「俯瞰」と「平衡を図る」が抜け落ちている、んだね。
そうか、それを「もっともなもの」として訴えるには。「人の経験にだけ訴える」のか。
自分の「実感」は、確かに強烈な印象とともに記憶される。
だけど。その「実感」も大いなる「思い込み」から生じていることだって、あるわけで。
人のバイアスは、意外に「強烈」だから、ね。
人は一般的に、自分の感覚で物事を認識していく。(=知覚)
その「感覚」自体が、自分の「思い込み」だとは信じたくない。
なぜなら。自分の感覚を疑う、ということは、それまで自分が構築してきた世界(=認識)を崩す、ことになりかねない、からだ。
今まで自分が「こうだ」と思ってきた世界の根底が、ガラガラと崩れる、気がするからだ。
まあ、だから。
今、自分がこうだ、と認識している世界も、カッコ付きで考えればいい、だけなんだけど、ね。
今のところ、こんなふうに認識しているけれど。
それは自分の知覚したものが前提に成り立っている世界、だけど。
でも、自分の知覚自体が、「思い込み」である要素もあって。
それが「発覚」したときには、その都度「修正」すればいいわけで。
つまりは。自分の知覚自体を「修正する可能性がある」ものとして織り込み済みであれば、そうショックも受けない。
まあ、だって。そうでしょ?
ちゃんと、新幹線を予約しているつもり、だったし。
ちゃんと、飛行機もホテルも予約しているつもり、だったし。
でも、そうではない、ということに、いちいちショックを受けていたら、私、生きていけない、じゃない?
とまあ。私はもう自分が「何かやらかす」と思っているので。
ああ、またやっちまった。。と思うだけで。「はあ〜あ」とは思うけど、すぐさま立ち直る。
まあ。これが、私が私と付き合っていく術(すべ)ね。
これを「いや、ちゃんと予約したハズだ!」とこだわったりしても。
自分の「気が収まらない」分、周囲に当たり散らしてりして。周りにメイワク。(いるよねえ、こんな人)
自分も不幸、周囲も不幸、ってことになる。
まあ、だから。
自分の感覚を全面信頼、してはいけない、のよ。
自分の感覚を全面信頼する時期は、まあ、3歳児、かな。
人はその「自己中心性」から脱却して、「客観的にものを見る」態度を身につけていく。
これがピアジェのいう「9歳の壁」で、抽象思考ができるかどうか、の最初の試練。
ということは。自分の経験のみで判断する、というのは、9歳児にもなりきれてない、ってことか。
それは悲惨だ。
まあ、だからこそ。「内実はそう判断する自分自身の『過信』であり、科学を生み出した社会的プロセスの重みをこそ否定するものだ」ということになるのだろう。
そうね。自分自身の「過信」だよね。
いやいや。私は私を、そう信じるものではない、とわきまえているので。(「何かしでかす」と思っていて。)
でもまあ、それでいいのかもしれない。(今日は1,600字)
画像は、広島の友人と彩が丘団地をゆっくりと歩いたときに撮ったもの。
「この一角がなんか、好きなんだよね」って言ったから、パチリと撮ったときに、友人が写り込むのも分かっていて、撮った1枚。
眺めていて。後ろ姿って、自分では見えない、んだよね、としみじみ思って。
自分では知覚できないものが存在する、ということも。分かっている必要があるように思いました。