折々のことば。2024年7月25日のモーリス・メルロ=ポンティの言葉。
どんな感覚も夢や離人症[自我感喪失]の萌芽(ほうが)をふくんでいる モーリス・メルロ=ポンティ
鷲田清一の解説。
どんな感覚もまずは「無記名」の状態で生じるのであって、何かが感じられるのも私がそれを感じるからではないと、フランスの哲学者は言う。
それらは。〈私〉の「手前」もしくは「辺縁」でたち起こる出来事としてすでに「世界に加担」しており、そのかぎりで〈私〉のこの存在はどこまでも自らに透明とはならないのだと。
『知覚の現象学・2』(竹内芳郎ほか訳)から。
おお! メルロ=ポンティ! と思った。
現象学の大家。ゲシュタルト療法を学んでいたときに、何度も聞いた名前。
気になるから、写メで撮っておいたのだけど。
なんとかなくとっつきにくくて、そのまま「放置」してだいぶ経つ。
そうね。2024年7月だから。半年ぐらい経つ。
現象学。AIによる概要説明では、
現象学とは、事物の本質ではなく、私たちが経験する状態を扱う学問です。哲学の領域において、人間の先入観を排除して内観に現れる現象を直接考察する思考法として確立されました。
現象学の創始者は、20世紀ドイツの哲学者であるエドムント・フッサール(1859-1938)です。
現象学の特徴は次のとおりです。
・先入観を排除して内観に現れる現象を直接考察する
・人間が認識できる世界はすべて主観的な体験に基づいていると考える
・外界の実在性について判断を停止(エポケー)し、純粋な意識(内観現象)を記述考察する
・主観と客観の関係を考察し、意識の操作によって厳密な学問を体系づけることを目指す
現象学は、哲学のみならず美学、社会学、法学などにも大きな影響を与えました。
だそうだ。さらには、
「現象学」とは、人間の先入観を排除することにより、人間の内面に起きる現象そのものを直接調べて考察するという思考法です。 フッサールはまず、人間が認識できる世界はすべて主観的な体験に基づいていると考えました。
「目の前にりんご があるから私にはりんごが見える」という自然なものの見方を、「私の意識にどのような所与があって、私はここにりんごあると確信しているのだろう」という見方に変えてみること。 これを現象学的還元と呼ぶ。
などと説明されている。
「所与」って難しいよね。まあ「働きかけ」と言い換えても。
つまりは。五感による知覚からものごとの認識は始まるのだけど、それ自体、「どんな働きかけがあって、それが見えるのだろう?」と問い直す。
確かに。別の気掛かりがあったりしたら、目の前にあっても「気づかない」ことだってある。
目の前のりんごに気づくためには。何か、匂いがしたのか、赤い色が主張したのか、お腹が空いていたのか。そういった自分の「内部」の状態も関係してくる。
そしてメルロ=ポンティ。これまたAIによると、
メルロ=ポンティの現象学は、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)が提唱した思想で、主著である『知覚の現象学』(1945年)で展開されています。
メルロ=ポンティの現象学は、次のような特徴があります。
・身体と知覚に焦点を当て、主観と客観、意識と物体といった二項対立を疑う
・身体図式という概念を導入し、知覚や体験の変換や翻訳を行う役割を担うと考える
・身体図式がもたらすものから、風景や芸術の様式が立ち上がると考える
・経験する主体は空間そのものを成り立たせる媒質であり、他者とともに不断に生成するものであると考える
メルロ=ポンティの現象学は、戦後思想の根底に大きな影響を与え、フランス現象学の展開に決定的な影響を及ぼしました。また、戦後美術やミニマル・アートの理論の形成にも影響を与えたと言われています。
いや、別に。AIに頼ろうと思ったわけではないんだけど。Googleで検索かけたら、こんなふうに出てきて。
まあ、つまりは。デカルトに始まった二元論(「精神と肉体」をはじめとして、全てを対立構造で捉える)に「ホント?」と異議を唱える考え方で。
まあ。デカルトも。デカルト座標でもって、モノの見方を提示した大家であるとは思うんだけど。
数学のxy座標(正式には「直交座標系」というらしい)が、デカルト座標だと知った時には。感動した。
まずは、「対立」でもってものごとを区分けし、それから、その「対立」が果たして絶対的なものかどうか、を検討する、という流れは。
至極、「順当」なものだ。
「分別(ふんべつ)」(=ものの道理を見極めること)という言葉が。「ものを分ける」「区分けする(=別けて考える)」ところから始まるように。
…一旦分けて考えてみて。それから、その分類が妥当かどうかを検討する、流れ、よね?
でもまあ。「物理」で習った「ブラウン現象」が。「観察者」によって動きを変えるから「観察」不能である、と言い出されたのは、いつだったっけ?
そもそも「客観」などというものは存在しない。「観察者」によって、その動きが変わる。となると。
ちょっと今、調べてみたけど。見つけられなかった。
分子原子の動きでさえ。「観察者」の意図を反映する、というならば。
そもそも「観察」自体が意味を成さないし、「客観」という概念すら成り立たない。
というようなところで私たちは生きている。
私独自の、なんて感覚は。そんなにない、ということか。
そうすると。「私」にこだわること自体が、不毛であるかもしれない。
まあ、「私」は、これまでの人類の集合体の恩恵を受けている、と素直に「ありがとう」と思っておけばいいだけの話、かもしれない。(今日は2,300字)
画像は昨年2月28日に撮った白梅。
節分の次の日は立春で。今年の節分もいつも通り2月3日と思っていたのに、なんと昨日で。
だから、今日(2月3日)が、今年は立春。
梅の花も、早い子はそろそろ咲き出す、かな?