折々のことば。2025年1月17日の小田嶋隆の言葉。
友達は、友だちだ。/でも、友だちの友だちは友だちではない。/そこに線を引かなければならない。 小田嶋隆
鷲田清一の解説。
友だちの友だちは友だちといった同心円の拡張から離れようと、コラムニストは言う。
それは仲間と思いを共有していた頃への郷愁であり、その「密閉容器」でしかなく、<私(エゴ)>が充満する。
それより友人との、ひいては自分自身との「距離の取り方」を学ぶべきだと。
「ぼっち」も一匹狼(おおかみ)も負の状態ではない。
『小田嶋隆の友達論』から。
「同心円の拡張」「郷愁」「密閉容器」という言葉に。しばし、絶句する。
「友だちの友だちは、皆友だちだー」という言説に。
ふん。お気楽ね、と思ってきた私ではあったけど。
そんなふうに(「同心円の拡張」「郷愁」「密閉容器」と)言われると。ちょっとたじろぐ私がいた。
…それは、そうなんだけど。ちょっと。言葉がキツ過ぎない?
言葉がきついと感じるのは。的を射ている、せいかもしれない。
私は、「お気楽ね」とは思ったけど。ここまでバッサリと切ることはなかったよ。
「同心円の拡張」では、劇的な変化は起こらない。
郷愁(ノスタルジー)に浸るのは。過去に生きてるのであって、今にいない。
「密閉容器」に至っては。枠の中に収まって、しかも「エゴが充満する」となれば。腐っていくばかりだ。
昨日は、「丑の会」の立ち上げ飲み会で。(それなに? って思ったでしょう?)
まあ、言うなれば。「丑年」の自分の頑固さに辟易するのを語り合う会、のつもりだったのだけど。
沙羅Sara・丑の会
今回の参加者は、私と同い年のクライエントさんと、私と一周り違う、3人の教え子たちと。
(お店のオーナーシェフも丑年なんだけど、ね。半年後の「丑の会」は私の家でするから。今日は「もてなし」側でごめん)
あんまりそんな話にもならなくて。ただワイワイと楽しく食べて飲んで、だけだったのだけど。
でもまあ楽しかった。
参加者からも、楽しかった、と言ってもらえて。よかった。
その時に、ね。
話を聞いているうちに、ひとりの教え子に「でも、あなたはひとりの時間と空間、必要でしょう?」とつい言ってしまって。
もうひとりの教え子にも「あなただって、そうじゃない?」
「…まあ、私もそうだけど。」
人と語り合うのは楽しい。だけど、絶対的に、私には私ひとりの時間と空間が必要。
…まあ、アンジーは。邪魔にならないからね。余計なことも言わないし。(自己主張はするけど)
うーん。。なんだろう? 自分をニュートラルに戻す時間?
同心円的なつきあいは、望まない。面白くないから。
ノスタルジーには浸りたくない。今を生きたい。
「密閉容器」。これは息苦しい。だいたいにして風通しが良くなければ、腐っていく、じゃない?
いつでも。どこでも。風は通しておかなきゃ、ね。
「丑の会」だって。こうあらねばならない、から解放されたい。
緩やかに、穏やかに。動いていったらいい。
(だいたいにして。動きが止まるとよくないのよね?)
全ては移ろいゆく、ものであるから。
その流れに棹さすことをしなくていい。
「友人との距離の取り方」は分かるけど。
「自分自身との距離の取り方」という言説に。
ん? と思ってしまった。
…そうか。自分自身とも「距離を取る」ことを考えなければならない、のか。
自分自身と距離を取る、って、どうすることだろう?
自分はこう感じた、自分はこうすると思っていることに対して。ちょっと離れてみてみる、ということだろうか?
そうね。自分の感覚も絶対的なものではない、のだから。
少し角度を変えてみたら。別な見え方が浮上するかもしれない。
そうすると。「自分の思い込み」にも。気づける、かもしれない。
そんな作業をするのに。ひとりの時間と空間が必要。
としみじみ思ったことでした。(今日は1,600字)
画像は2021年3月27日、河内長野で撮ったもの。…桜、かな? 何にせよ。このところ寒くて。春が待ち遠しいです。