いつぞや、テレビで「岩合光昭の猫歩き」が始まって画面にネコが大写しになると、急いでテレビの前に行き、「うおんうおん」と言い始めた杏樹(アンジー)に、「アンジー、それテレビだよ」と言ってもなかなか納得せず、やっと理解したかと思うと、今度はテレビ台のガラス戸に映った自分の姿に「うおんうおん」言い始め、そのうちその場を離れました。
テレビのネコはそこにいないとわかっても、ガラスに映った犬は、自分だとは分からなかったようです。
鏡に映った自分の姿を見て「自分だ」と認識するのは、「鏡像認知(鏡像認識)」と呼ばれていて、発達心理学の古くからの研究テーマの一つだそうです。
人間の場合にはだいたい2歳くらいから、この能力を獲得すると言われているとのこと。
この「鏡像認知」はかなり特殊な能力らしく、これまでに厳密なテスト(=「マークテスト」)をパスした動物は、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、バンドウイルカ、アジアゾウ、カササギということです。
そんな「鏡」を題材とした詩をひとつ。「読書への誘い」の第32号で紹介したものです。
「鏡」 高野喜久雄
何という かなしいものを
人は 創ったことだろう
その前に立つものは
悉(ことごと)く 己の前に立ち
その前で問うものは
そのまま 問われるものとなる
しかも なお
その奥処(おくが)へと進み入るため
人は更に 逆にしりぞかねばならぬとは
(『独楽』中村書店 1957年刊)
確かに鏡は、嬉しい時には嬉しい顔を映し出し、悲しい時には悲しい顔を映し出してしまいますね。
いくら人前で取り繕ったとしても、ひとり鏡の前に立つ時、如実にその時の精神状態が映し出されます。
自分に嘘を付いていたとしても、鏡の中の自分は「そうじゃないだろ?」と言ってきます。
無理して笑っていた顔が奇妙に歪んで泣き顔になったこともあります。
そんな、鏡の映し出す世界に手を伸ばし、「本当の自分」を探ろうとしても、「その奥処(おくが)へと進み入るため/人は更に 逆にしりぞかねばならぬ」のです。
最近「自分探しはもうやめませんか?」というような言葉を耳にします。
その記事を読んではないのですが、昔、20代の頃、ちょっと年上(ホントはかなり年上、ふた回り年上)の友人、坂本節夫さんに言われた言葉があります。
「自分を知ろうとして自分ばかりを見つめていても、自分はわからない。自分を取り巻く世界を見て、初めて自分がわかるものなんだよ、まさこちゃん。」
節夫さんは、11歳の時に満州から引き上げてきた話をしてくれた人です。
ご自分の子どもが3歳になったぐらいから、屋根裏部屋への梯子段の登り方を教え、私を仰天させました。
「危ないじゃない⁉」という私に「危ないよ。危ないから、気をつけろと教えるんだよ。」と言いました。
孫ができた時に2階から落ちてはいけないからと、2階の踊り場を全部壁で覆った作りの家を設計した父とは、まるで考え方が違いました。
そして、私はそんな節夫さんが大好きでした。
自分がいなくなった後でも子どもたちが自信を持って生きていけるように、という願いを込めた躾のあれこれが好きでした。
ちょっと頑固で、よくミミさん(ミリアム)を困らせていましたけど、それでも、節夫さんという人間が好きでした。
おおらかで優しくて、何でも自分で作って。喫茶「みりあむ」の内装も節夫さんの手作りでした。
もう亡くなりましたが、でも、ふとした時に節夫さんとの対話を思い出すことがあります。
…そうね、節夫さん。
自分ばかりを見つめていても、何もわからない。
人との、世界との関わりで自分が見えてくる、どんなありようをするのか、どんなありようがしたいのか。
…確かに、節夫さんのいう通りだったよ。
今日は「みりあむ」にお泊りに行く予定をしているんですが、ミミさんとふたり、ゆっくり節夫さんを偲ぼうと思います。
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