“その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり。
翁言ふやう、『われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給ふべき人なめり』とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。
妻(め)の嫗(おうな)に預けて養はす。美しきことかぎりなし。いと幼ければ籠(こ)に入れて養ふ。
竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹取るに、節を隔てて、よごとに、黄金(こがね)ある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁やうやう豊かになりゆく。
この児養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月(みつき)ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳(も)着す。帳の内よりも出ださず、いつき養ふ。
この児のかたちのけうらなること世になく、屋(や)の内は暗き所なく光満ちたり。翁、心地あしく苦しき時も、この子を見れば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。
翁、竹を取ること久しくなりぬ。勢ひ猛(もう)の者になりけり。
この子いと大きに成りぬれば、名を三室戸斎部(みむろといんべ)の秋田を呼びてつけさす。秋田、なよ竹のかぐや姫と付けつ。”
ここまでが、教科書に採られている冒頭文です。
そうでした。一寸はおよそ3センチ。だから9センチぐらいで竹から生まれたかぐや姫は、三ヶ月で「よきほどなる人」、つまり成人します。
その成長の早さは、竹の子がぐんぐん伸びるのを模したものではないか、という解説を聞いたことがあります。
映画では、姫を授かったのち竹から黄金や着物が見つかったりするので、翁が「高貴な姫に育て上げなければ」という使命感に駆り立てられ、村の生活を捨てて、都に大きな屋敷を構えて、「高貴な姫」教育を施すようになっていくのですが。
当時の女性の幸せは、身分の高い殿方と結婚することだったので、翁は良かれと思って、姫の幸せを願ってそうしたのです。
そして、野山を駆けていた姫は、躾けられて元気がなくなっていきます。
姫のそばにいる媼は、翁が願うことは姫のためになっていないのではないかと疑いながら、でもどうすればいいのかわからないまま姫を見守ります。
なんか…身につまされます。
「良かれ」と思って親が子にすることは、むしろ、子を息苦しくさせていまい、生きている喜びを奪うことも多いのではないか…。
で、姫は「ここに居たくない!」と月に願ってしまい、月からの迎えが来て…。
姫が、屋敷の庭にしつらえた野山を模した造作を「偽物!偽物!」と壊し、自分自身も高貴な姫などではない「偽物」だと断じた辺りに、私は切ないものを感じました。
野山を駆けていた頃が本当に「生きて」いた。
それをもっと味わうべきだった。
大きな屋敷に住み、美しい着物を身にまとうことが、果たして「いのちを輝かす」ことになるのか?
という強烈な問いかけは、胸を打ちます。
そうだ…「いのちを輝かす」生き方をしていきたいのだ…
野山を自在に駆け巡るような生き方をしたいのだ、私も…と思ったことでした。
主題歌よりも、私には作中の「わらべうた」が妙に耳に残って。
調べてみました。
わらべ唄
作詞:高畑勲・坂口理子
作曲:高畑勲
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる
いのちは…、いのちの喜びは、自然との繋がりの中で生まれるものかもしれない。
自分が生きていくだけのものをいただいて、他の生き物をできるだけ殺さないようにして、
日の光を浴びて、風が通リ過ぎるのを見て、草木の息吹を感じて…。
そんなことも考えました。
画像は、5月の杏樹(アンジー)との散歩時に撮った「朝の光」。
何の変哲も無い草花が、光に包まれると輝いて見えます。
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