11月28日付の「折々のことば」は「足を棒にする」。慣用句から。
長いこと歩き回ったり立ちっぱなしでいたりすると、足は緩やかなあそびをなくしてがくがくになる。
つまり限界の合図だ。
昨今はしかし、人は限界に行き着く前にそれを回避する。
何ごとも「ほどほど」にしておく。
けれどもその「ほどほど」は限界を知っていないとわからない。
「ぎりぎり」を知らない「ほどほど」はただの萎縮。
限界をしらねば、たくましさも生まれない。
ほお。なるほど。
「『ぎりぎり』を知らない『ほどほど』はただの萎縮。」とは、手厳しい。
でも、そうでしょうね。
「ここまでやったら、ダメだ」が分かってなくて、ものごとを進めるのは無謀すぎるし、
逆に、「ほどほど」で収めようとするのは、もっといいものができるかもしれない可能性を最初から捨て去ること。
う〜ん。そうね。
だから、子どもが「失敗」するのをとめたらいけないんだね。
大人の知恵で、「ああ、そんな風にしてたら、上手くいかないぞ」が分かっていたとしても、
「ダメだよ」と、とめてはいけない。…命に関わる問題以外は。
自分のやり方でやって、「失敗」した子どもには何が残るか。
それは、納得、でしょう。
これじゃあ、上手くいかないんだ、という納得。
で、そのままやめるかどうか、は本人の問題。
大人は、「成功するまでやり続けたら、『失敗』じゃなくなるよ」と耳元でささやくだけでいい。
…まるで、エジソンみたいだね!
大人は…子どもが転けて痛い思いをするのを見るのがイヤなので、
ついついおせっかいを焼いて、口出ししてしまうんだけど、
でも転けなければ、痛みがわからなければ、人の痛みも分からない。
転けた人だけが、同じように転けた人の痛みが分かる。
でも! 立ち上がる勇気が自分にあることもわかる。
それから…他の人にも、自分で立ち上がる勇気があることも、わかる。
足を棒にして歩いた人だけが、自分の「限界」を知り、
そして、その「限界」は、今の「限界」であって、
未来永劫の「限界」ではないこと、も知る。
画像は、この前の土曜日に行った神戸・三宮で撮ったもの。
ちょっと素敵な回り階段に出会いました。