2019年12月20日の「折々のことば」。
「信じる」ということは、仮定形の上には成り立たないのではないか。 湯川豊
鷲田清一の解説。
大岡昇平の小説『野火』は、戦地で小隊からも病院からも見放され、山中を放浪する一等兵を描く。
疲労と飢餓で意識が朦朧(もうろう)となる中、ふと「神」らしき何かに見られていると感じた兵士の独白、「もし彼が真に、私一人のために」にふれ、文芸評論家はこう記す。
信仰は聴き届けられる保証のないまま差し出されるもの。
人を愛することもきっと同じ。
評論『大岡昇平の時代』から。
評論家の言葉は、「限界状況」下にある兵士の言葉を捉えて、評したもの、らしいけど。
私が目をとめたのは、「神」への信仰の問題に反応したのではなく、
多分、「信じる」という行為そのものが、いったい何なのか、をふと思ったからだと思う。
…日々の生活の中で、私は何を信じてる?
朝、目が覚めて、今日の予定を思い起こし、おもむろに起き上がり、机の上のパソコン前に座る。
ひとときの時間。私は「入り口」となる言葉やことに反応し、それに纏(まつ)わる言葉を手繰りよせる。
何かが形作られていく。
その何か、が一定の形になることを、多分、信じて、言葉を手繰り続け、ひとつのコラムができあがる。
…いえ、最初から着地点が見えてるわけではないのだけれど、そのうち、着地点が見えてくる、と信じて、続ける。
あ、そうだ…! 調子が悪いときには、この「漠然とした感じ」を信じることができない。
「漠然と」着地点に辿り着くだろう、と信じることができない。
すると、手が止まり、その先へは一歩も進めなくなる。
そして、この「できない」感覚だけが私の内(なか)で増幅されて、書くことだけでなく、生活全般が滞る。
「漠然とした感じ」は、何か根拠があるわけではないのだけれど。
脳天気に、信じていられる、感じ。
…何を信じるのだろう?
私を。私の中の言葉が溢れ出て、ひとつのかたちになることを。
ああ、そうか!
「自分が信じられない」のが、危機的状況、なんだ!
そうね。調子が悪くなったときには、何をすべきで、何から始めたらいいのか、さえわからなくなる。
やろうとしていたことを書き出して、順番に並べて、その1つ、から始める。
こんな大変なことを、書き出しもせずに脳内でやっていたのか!と思ったこともある。
こんな風に、調子を崩したことが何度もあったので…私は、調子が悪い人に、「何を、どうすれば」と問われた時に、答えてあげることができる。
…まあ、「私の場合は…」ということでしかないけど、ね。
コラムを書き終えたら、杏樹(アンジー)の朝の散歩。
時には母の様子を見に行く。それから、朝ご飯。
こういった一連の朝の時間が、滞りなく流れていくこと、を信じている。
天変地異が起こることは想定してない。
「日常」を信じている。
そうね。「仮定形」では考えてないわ。
天変地異、とまでいかなくとも、何かイレギュラーなことがあって「日常」に滞りが生じるとき、「日常」のありがたさを思う。
自分を信じる、というとき、自分の正しさ、などを信じているわけではなくて。
自分の可能性、みたいなものを信じている気がする。
「お困りごと」があったとしても、なんとかするんじゃない?…みたいな。
漠然とした、根拠のない、それでいて、あっけらかんとした「自己肯定」。
ああ、そうだ。きっと、自分の何かを「突き詰めないと」いけない感じ、は、よろしくない兆候だろうな、と思う。
画像は、鎌倉で立ち寄った甘味処のお店の天井と壁。
どこにピンを打って、どう線を張り巡らせるか、など、迷いだしたらきりがないだろうな、と思う。
多分…何事も、法則性も何も関係なく、気分のままにしておける、のが「調子のいいとき」なのだろうと思う。