2020年1月29日の言葉。
人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。司馬遼太郎
鷲田清一の解説。
作家が小学6年生に向けて書いた『二十一世紀に生きる君たちへ』から。
自分がより大きなものによって生かされていることを知ってほしい、他人の痛みを感じ「いたわる」人になってほしいとの、願いがこもる。
「たのもし」は「頼りになる」こと。
私の言い方だと「逃げない」「体を張ってくれる」ということ。
「こんなときあいつがいたらなあ」と言ってもらえる人になりたいな。
昨日、カウンセリングに高校1年生が来られて。
周囲の友だちが心底信じられなくて、何か…「道具」のように感じている自分がいるのだという。
そんな子どもの「物言い」に、お母さんはドキマキしてしまって、ちょっとおろおろされている感じ。
でも私は、そんな彼女の率直さが好ましいとさえ思う。
だって、嘘がないもの。
そうねえ…と私はおもむろに口を開く。
そんな風に見てしまう、ということは、自分もそんな風に見られてもいい、ってことを受け入れないといけなくなるけど、大丈夫?
そんな風に、逆視点で自分を見る目を提示する。
少し、はっとした様子を見せる。
でも、私は答えを求めない。…すぐさま答えを出さなければならないことではないから。
むしろ自分の内(なか)で反芻して、自分なりの答えを導き出す方がいい。
お母さんが、助け船を出すように「親友がいないと悩んでいるようなんです…」と言われる。
親友? 私はびっくりする。
私にしたって「親友」は大学時代の友人から、だよ。
そんな風に話し始める。
だってね、自分のこともよくわからないのに、その自分と合うかどうか、なんていっそ分からないじゃない?
本当に信じられるかどうか、司馬遼太郎の言う「たのもし」かどうか、なんて、すぐにはわからない。
いろんな出来事があって、いろんな局面を見て、ああ、この人は私を裏切らない、と思える。信じられる。
同時に、この人を私は裏切りたくない、と思う。そうありたいと自分に願う。
今すぐ周囲の人を信じられるかどうか、は定かでなくても、自分が信じたい人から自分も信じて貰える自分を、今から創っていくことはできる。
それには、人、ではなく、自分がどんな人なのか…何を大事に思い、何が許せないのか、を知る必要がある。
そう言うと、「人ではなく自分、なんですね」と返してきた。
私は、ああいい子だね…と思い、ニッコリする。「うん。そうだね」
ああ、本当に。私は高校生が好きだなあ、と思う。その素直さが。
小学生も可愛いけれど、ね。
鷲田清一の「私の言い方だと」という言い方に、ほっこりする。
そして、「『こんなときあいつがいたらなあ』と言ってもらえる人になりたいな。」という終わり方に、清一少年を感じていとおしくなる。
画像は、伊勢の内宮で見かけた、太い木の幹に映る影。
自分の目に映るものは、影にしかすぎない、かもしれない、その大元のありようを見ていきたい、と思います。