1月25日。うららかな日差しの午後。
第6章「継続おめでとうー不生不滅(ふしょうふめつ)」を読む。
聴きなさい、舎利子よ、
すべての現象には、空が記(しる)されている。
その本質は、生じるのでもなく滅するのでもない。
舎利子 是諸法空相 不生不滅
私たちは日々、生と死を目の当たりにしているというのに、どうして観自在菩薩は「生まれることはなく、死ぬこともない」と言ったのでしょう?
では、今から、左から右へ一本の線を引きます。
その線は時間をあらわすものとしましょう。
線の左側は過去、右側は未来だと想像してみます。
その左側にあるひとつの点を「B点」、つまり、あなたが生まれた瞬間の「生」Birthの起点とします。
ところが「B点」と名付けると、もう問題が発生します。
あなたは、生まれる前は存在などしていなかった、「無」の領域に属していた、存在しはじめたのは誕生した「B点」から後だ、と考えます。
さらに、その線に沿って人生を生き、はるか向こうの「死」Deathの「D点」に達するまで、ずっと同じ人間であり続けると信じます。
そして、「D点」に着いたらもう存在しない、と考えます。
〈有(う)〉の世界から〈無〉の世界にふたたび移行することになります。
今度は、一羽のめんどりが卵を産もうとしているところを想像してみます。
その卵は、めんどりが産み落とす前に、すでにめんどりの胎内に存在しています。
同じように、あなたも外界に出てくる前に、お母さんの体の中に九ヶ月間入っていました。
あなたが生まれる「B点」以前にすでに存在していたことに疑いをはさむ余地はありません。
すでにそこに存在しているのなら、わざわざ生まれる必要はないというのが事実です。
でも、もともと存在していないなら、あるとき突如として、存在することはできるのでしょうか?
どうやったら無であることから「何か」になるというでしょう?
じつは、あなたは受胎する前にもうすでに存在していました。
あなたをつくっている要素のうち、半分は父親、もう半分は母親の中にあって、それは遺伝子や染色体だけでなく、思考、信条、資質、才能なども含まれています。
もっとさかのぼるならば、あなたの祖父母や曾祖父母、そのまた両親とその祖父母の中にも、あなたは存在していることがわかるでしょう。
深く観ていくと、あなたは存在していないときなどなかったのです。
あなたのお母さんがあなたを産んだ日は、あなたが生まれた日ではなかったのです。
あなたがそのような形になってあらわれた日に過ぎません。
あなたはいつも存在していたのです。
生まれることはなく、あるのは継続だけです。
あなたが誕生日と呼んでいる日は、本当はあなたの「継続の日」なのです。
今度その日を祝うときは、「継続の日、おめでとう」と言ってみましょう。(pp.68-70)
うーん。確かに。
卵は産み落とされた日から存在したのではない。
胎内にあったからこそ。
人も十月十日、胎内で育つ。
私も、胎内で育てたから。実感はある。
けれど、遺伝子的にも、祖父母、曾祖父母…と、ずっと以前から存在していた、と言われても。
それは自分の身体の話でしょ? とどこかで思ってしまう。
私の精神(心)は、私が生まれてから培ってきたものだ、と。
もちろん、身体と心は別ものではない、繋がっている、と思っていても。
この、頑固な「抵抗」はどこから来るのだろう?
たぶん…私は、両親の価値観に抗って抗って生きてきた、ので。
あのような両親の価値観など、受け継いでいない! と思うので。
…しかし、40年来の友人は、私の、私の子どもへの対し方を観ていて、それは私の両親が私に対した「厳しさ」と同じものがある、と言う。
私は、非常な戸惑いを覚える。
そして、そんなことはない! と言いつつ、どこかで「そうかもしれない」と思っている私がいる。
昔から…両親は私の相談相手ではなかった。
今でも、そうではない。
そして、その対し方を、私は私の子どもから受けている? と今ふと思った。
…両親にとっても、祖父母は相談相手ではなかった、ことを今、思い出した。
ああ、そうだ。
両親は、基本自力でことを成してきた。
祖父母からの助けを受けたけれど、それは最小限で。
たぶん、私も、そうして来ている、と思う。
おそらく、私の子どももそうする、と思う。
ああ、そうか。
私の中に両親は存在し、私の子どもの中にも私が存在する。
ああ、なんだ、そうなんだ。
「生まれる」という概念は、私たちの意識がつくり出したものです。
しかしそれがあると考えたとたん、死もあるはずだという考えも、当然のようについてきます。
しかし、この世界の真実のありかたは、何も生まれず、何も死なないということです。
雲とて、生まれたわけではありません。
生まれるということは、何もない無の状態から何かになるということですが、雲はそうではありません。
雲として空に浮かぶ前は、無ではありませんでした。
雲は、大海の水でした。太陽が放った熱でした。空に昇っていく水蒸気でした。
空に消えていって目に見えなくなっても、死んではいないのです。雨や雪に形を変えただけです。
「死」の概念もまた、私たちの意識の産物です。
「有」が「無」になるのは不可能なことです。
雲は死んでいません。雨や霰(あられ)や雪となり、やがて川となり、私のこの両手の中の茶碗に入ったお茶になりました。
そのように、雲の本質は「不生不死」なのです。(p.72)
宇宙の万物はそのようなものです。あなたと私もそうです。私たちは生と死には左右されないのです。
禅の老師が、こんな瞑想の課題を弟子に出したとしましょう。
「お前は、お前の両親が生まれる前は、どんな顔をしていたのだ?」
この問いは、さまざまな形をとってあらわれてきた、あなた自身のすべてに目覚めるための旅に出なさい、という誘(いざな)いです。
深く観るならば、あなたの過去世も未来世もわかることでしょう。
私は抽象的な哲学についてではなく、目の前のこの現実について話しています。
さあ、あなたの手を見て、自分に問いかけてみましょう。
「私のこの手は、一体いつからあるのだろうか?」
深く観ていくと、その手は何百年、何千年もの長いあいだ、存在していたことがわかります。
あなたの手の中には、何世代にもわたる祖先が見えるでしょう。
祖先は過去の時代に生き、今この瞬間にもここにいます。あなたはその続きなのです。
あなたのご先祖さまは一度だって死んだことはありません。
一度でも死んだのならば、どうしてあなたの手はまだそこにあるのですか?
フランスの科学者のアントワーヌ・ラヴォアジェ(1743ー1794)は、「創造されるものは何もなく、破壊されるものも何もない」と言いました。
般若心経の教えはまさにそれなのです。
現代の最高の科学者をもってしても、ちりや電子ほどの小さなものさえ、無になるまで減らすことはできません。
何か形のあるエネルギーが、別の形になったエネルギーに変わるだけのことです。
「有」を「無」にすることは、たとえひとかけらのちりでも絶対にできないのです。(pp.73-74)
「この問いは、さまざまな形をとってあらわれてきた、あなた自身のすべてに目覚めるための旅に出なさい、という誘い」、に戸惑う。
え? どういうこと?
慈照尼の解説。「確認できるのは現象のみ。有るのは現象だけだから、対処していくしかない」。
うーん。確認できるのは現象のみ、ですか。なるほど。実体はない、と。
アントワーヌ・ラヴォアジェって? 調べたら、「質量保存の法則」を発見した人でした。
ある秋の日、公園を散歩していた私は、とても小さくて美しいハート型の葉っぱを観ながら瞑想に浸りました。
その葉は赤い色に変わりつつあり、なんとか枝に残っていましたが、今にも落ちそうでした。
私は長い時間、この葉っぱと一緒にいて、たくさんの問いかけをしました。
するとその葉は、木の母親であることがわかりました。
普通なら、木が母親で葉っぱは子どもだと考えますが、その葉をよく観てみたところ、母親でもあることがわかったのです。
木の根が吸い上げる水分は導管液と呼ばれますが、その成分は水分とアミノ酸とミネラルだけで、木が育つのに十分ではありません。
そこで木は木部樹液を一枚一枚の葉に送り、葉は太陽と二酸化炭素の力を借りて糖分の豊富な師管液に変え、木に送り返して木を育てます。
それで葉は木の母親でもあるのです。
葉っぱは幹を通して根っことつながっていますから、そのあいだにやりとりがあることはみてわかります。
私たちもこの葉っぱのようなものです。
私たちは子宮の中にいたころ、へその緒という幹によって母親とつながっていました。
栄養はすべてそこから得ていました。
母親は私たちのために呼吸し、食べて、飲み、何もかもやってくれました。
そしてある日、へその緒が切られると、私たちは母親とは別の異なる存在であるかのように考えはじめたのです。
しかし事 実として、母親はそれまでのように私たちを養い続けました。
私たちの細胞一つひとつの中には、私たちの両親がいます。
私たちは母親から栄養とともに苦しみや問題をもらい続け、母親の胎内にいたときのように影響を受け続けます。
へその緒はまだそこにあります。十八歳になるまでではなく、一生そこにあります。(pp.75-76)
葉っぱと木が相互作用の関係で、だから葉っぱは子でもあり母でもある、というのは納得できるのだけど。
「私たちと母との関係」が「この葉っぱのようなもの」と言われても。納得がいかない。
何か「母性神話」的なものを感じるから。
妊娠中、お酒などを禁じられたのは、「悪いものは自分の異物である子どもの方に行くから」。
ふうん。母体は、子を異物として認識して、毒は「体外」に排出するのか、と、軽いショックを受けた記憶があって。
それは、必ずしも「子を保護する」方向ではなくて。
いざとなったら、母体は母体の保全を図るんだ…と、その利己的なシステムに驚いて。
でも。そうよね。虐待などできるのは、「自分じゃないから」。
自分の心の安定を図るために、子を犠牲にする、構図。
しかし、そういうものだ、と認識している私がいる。
夜寂しいから外で泊まってくれるな、と言った母。
「私の介護のために帰ってきてくれたんじゃないの?」と言い放つ母を前に、もう限界だと別居に踏み切った一昨年前の秋。を思い起こす。
慈照尼と話していて。
男性が抱く「母性神話」的なものが導くズレ。ティク・ナット・ハンさんも。
そもそも「母親は私たちのために呼吸し、食べて、飲み、何もかもやってくれました。」とは思えない。
母親が「呼吸し、食べて、飲み」したのは、まずは自分の生存のため。
だって。お腹が空いたら、まずは自分のために食べるじゃない? 子どもにも行くけれど、それは二の次。
つわりなどが続く場合、ちょっと恨めしくも思ったり、もする。…そんな事態が。
そんな「きれいごと」では済まない現実がある。
男性にとっては「身も蓋もない」ことかもしれないけど。
女は美談に生きてはいない。
たいていの人は、生死の世界に生きることに慣れていて、不生不死の世界を忘れています。
私たちは、今まさにこの瞬間に、不生不死の命を生きていることを知らねばなりません。が
ただここで「知る」という言葉がとても大切です。
「知る」ことは目覚めることで、その覚醒がマインドフルネスなのです。それは、どのようなものによっても、どんなやりかたであっても、私たちは決して生死に左右されないということです。
大学院で博士号を取るために、来る夜も来る夜も一年また一年と徹夜して研究し、六年も七年もの人生を捧げる人もいます。
一方私たちは、般若心経がさし出す洞察を深く見つめるために、はたしてどれだけの日々と年月を捧げているのでしょうか?
般若心経を学ぶことは、知的な遊びではありません。
自らの解放にかかわることです。
般若心経を学ぶならば、私たちの生きる日々の現実への洞察を得て、自分自身を悩み苦しみや怖れから解放することができます。(pp.80-81)
「『知る』ことは目覚めること」。そして「自らの解放にかかわること」。
そうだ、と思う。本当に「知った」ならば、意識が変わる。そして、行動が変わる。日々の生活が変わる。
それが自らを解放する。…何から? 自分の狭いとらわれから。自分の狭いとらわれから生じる、迷い、不安、淋しさ、から解放する。
はい。そう信じます。
画像は、昨日作ったフラワーアレンジメント。
今あるものは今ある「現象」である、と。
その瞬間を愛でて、素敵だ、と思えればそれでいい、永続的でないことを嘆かなくていい、と学びました。