2021年2月2日の「折々のことば」。最果(さいはて)タヒの言葉。
譲れない部分で対立したのなら、険悪になってもいいのではないか。
当たり前の、健全な出来事に思えてなりません。
鷲田清一の解説。
人は親密さをさも美しいことのように語るが、人間関係を最優先するその語りに抗(あらが)いたいと詩人は言う。
自分がほとんどの人にとってどうでもよい存在だと思い、そう思うようにして生きてきたのに、先に親密さを言われると、対立の先にあってほしい優しさまで歪(ゆが)むと。
連載コラム「最果からお届けします。」(「ちくま」2月号)から。
人間関係を最優先すると、だんだんとものが言いにくくなる。…確かに。
親密さに水を差す、ような気がして。
えっと。この場合の「水を差す」感じは…。
ぴったりと張り付いたような「親密さ」を、端からベリベリと剥がす、ような感じ。
剥がされた面に、新鮮な空気を感じる。
けれど。ひんやりとした、その頼りなさに思わず首をすくめたり、して。
ちょっとした「不安」に晒される。
そのひんやり感が落ち着かないから。
黙ったままでいる。
それでも、いよいよとなって、「意を決して」切り出す。
…まあ、いずれにせよ、違和感を感じたことは、切り出すんだけど。
関係を続けて行きたいときには。
この人とは、このままのキョリでいいと思ったら、もう何も言わない。
あるいは、言っても何も変わらない、と諦めたときにも何も言わない。
言葉は。その人の近くまで行っても、眼前でぽとんと落ちて、届かない。
受け取ってもらえなかった言葉の残骸を、拾い集める作業は辛さを伴うので。
そんな風に歳を重ねてきて、流石にもう目立った「対立」は避けるようになって。
それでも。避けられない「対立」があって。
だから「譲れない部分で対立したのなら、険悪になってもいいのではないか。」の言葉に釘付けになった。
険悪になりたいわけではないけれど。
…そうすると、私の「譲れない部分」って何だったのだろう、と反芻する。
「人と誠実に関わること」。…うん。そうだ。
私に、誠実に関わってくれなかった、から。悲しくて、怒ったんだ。と、今気づいた。
…誠実に関われなかったのは、それなりの理由はあった、のだろうけど。
その時の私は「それなりの理由」を分かりたくなかった、のだろう。
ああ、全く。駄々っ子のようだ。
ああ、もう。手放そう。
「対立」は辛い、と双方が思わないことには、所詮、私の片想いだから。
「当たり前の、健全な出来事」という言葉に励まされ、慰められる。
画像は、生駒駅前ビルで見かけた草花。
冬の、柔らかな日差しの方向に伸び上がろうとする様子が、なんとなく微笑ましくて撮った一枚。