・セラピーというのは、その彼の妨げを妨げること。それをやめろというのではなく、そこに日の光を当てること。つまりそこに気づいてもらうこと。
・どうやって彼が自分自身をちょっとしたことでも我慢させて爆発寸前にまで持っていってしまっているのか。そこに気づいてもらう。
・そして爆発してしまうと、彼はそれを凄く後悔する。そして自分がしたことに対して自己批判を始める。
・物質の依存症によく見られること、薬物にせよ食べ物にせよ、アルコールにせよ、やめたいんだけど、でも、頑張ってやらないようにしようと。でもそれでは決してうまくいかない。
・ほとんどの国において、アルコール依存症の人も素面(しらふ)に戻ることができる。その素面の状態を続けることができない。
・ダイエットをしたい人はダイエットに成功するんだけれど、またリバウンドしてしまう。それはクッキーを食べる数をコントロールするということではなく、大事なのは、本当のニーズは何か、ということ。そのクッキーが表しているものは何なのか、ということ。
・そのニーズを自覚しているクライエントはいるけれども、自覚していないクライエントもいる。
・私はこういうふうに声をかけている。「クッキー食べたいな、と思ったら、あるいはビールやウイスキーのみたいな、と思ったら、30分待ってみて、その間にどんなニーズが自分の中に生じて来るのか、気づいてみてください」。
・そういうと、ひとりの人は、いかに自分が淋しいかということに気づいた。つながりが必要。でもそのつながりの方に行かないで、クッキーの方に行っちゃう。数分間、いい気分になれるから。でもそれで淋しさが埋まるわけではない。
・あるいはトラブルが不安で、どうしても飲んでしまうという人がいた。お酒を麻酔薬のように使っていた。でもその不安自体のワークはしていないし、どんなふうにその不安を癒すということに自分が「寄与」しているか、ということも見ていない。
・多くの場合、クライエントは私が第二幕の問題と呼んでいるものに、固着している。でも、実際にはそれは第一幕の問題の結果。
・日本ではどういう状況かわからないけれど、アメリカではダイエット産業が非常に大きい。15年前の話だが、減量に成功して2年間それを維持できたら成功と言われた。それが3%。97%はそれさえできなかった。(2年後以降はわからない。)それでも今も多くの申し込みがある。明らかにニーズに対処していない。ニーズはクッキーやアルコールではない。意識を変えること、である。何らかのニーズが満たされていない。
・アルコール依存や薬物依存や減量に関するプログラムに参加すると、そこではニーズそのものを見る、ということがされていない。クッキーを食べること自体がその人のニーズなのか、あるいは何かの代替としてクッキーを食べているのか、そこを見るということがされていない。
<質問1> クライエントと出会っていって「我ー汝」の関係性になるというのは、フリッツ・パールズの「ゲシュタルトの祈り」の内容で合っているか?
・「ゲシュタルトの祈り」は不運な祈りで。というのは、あの「祈り」の中の表現に含まれていない、いろんな背景事情があるから。
・フリッツが1968年に書いて、出版されなかった50ページほどの文献があるが、それについての新しい本を私も書いたところ。
・新しい本をフリッツが書いていて、その初めの方のところだった。それ自体は出版されなかったが、最近その11人のゲシュタルトセラピストが、それに関してコメントしている本が出版された。『サイコパソロジー・オブ・アウェアネス』(気づきの精神病理)というタイトル。今、英語版とフランス語版が、私の知っている限りでは出ている。で、その中で私は「ゲシュタルトの祈り」に関して書いている。
・あの中に「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする」とある。でもあそこで本当にフリッツが言いたかったことは、「私は誠実にそのままの自分としてここに現れる。そして私はあなたもそうしてくれることを望む」ということだった。
・そして次は「私はあなたの期待を満たすためにこの世にいるわけではない、あなたは私の期待を満たすためにここにいるわけではない。」というふうに続いていく。そこで彼が言いたかったことは、私たちはそのままの私たちとして、ここでフィットするかどうか、合うかどうか、合致するかどうかを見てみましょう、ということ。
・そしてその後、「もし、たまたま私たちがお互いを見出すことができたら」と書いているが、そこで彼が言いたかったことは、「私たちにとって本当に大事なことに関して、私たち二人がそこでフィットすることができるかどうか、見てみましょう。」ということだった。
・完璧に合致するということでなくて、たくさんのことを妥協しつつ、でもその中核のところ、コアなところは、妥協できない。だから、どれぐらい自分自身を侵すことなく、自分を引き延ばすことができるかどうか、見てみましょう、ということだった。
・どこで食事を取るかについは妥協することができる。どこで住むかも妥協することもできる。でも宗教は妥協できない。あるいは、左なのか右なのか、その政治的な指向を妥協することはできない。
・「もし、私たちが出会うことができたら、それは美しいこと。もしそうできなかったら、それは仕方のないこと。」。ここで彼が言いたかったことは、どれくらいお互いに妥協できるか、自分のコアのところは守りつつ、でもどれくらい自分を引き延ばして妥協していくことができるか見てみましょう。その上で、お互いに出会うことができるか、見てみましょう。そうできれば、それはとてもいいことだし、でもそうできなかったとしたら、それはどうしようもないこと。
・そういう文脈、そういう意味合いがある。でも、そこを知らずに表面的に読んでしまうと、まあもし完璧にフィットすればそれはそれで凄くいいことだし、できなかったらまあしょうがないよね、と退けてしまいがちになる。
・フリッツは、なんというか、ちょっと新しいことを言う、挑戦的な言い方をする人だった。よく、人を動揺させるような物言いをする人だった。それによって、その人に考えさせたり、何かをしゃべらせたり、しようとした。
・「ゲシュタルトの祈り」も、本当の意味を取らずに読んでしまうと、あ、ダメな時はダメなんだね、というふうに読めてしまう。
・「我ー汝」が起こった時には、素敵。そして、そんなに頻繁に起こることではない。私たちは人生のほとんどは「我ー汝」ではない。ほとんどの人生は、ブーバーの言うところの「我ーそれ」。戦略的である。そして、多くの場面において、戦略的であるということは、悪いことではない。でも親友といる時には、あるいはパートナーといる時には、あるいは子どもといる時には、時には自分の親といる時には、本当の自分でいることを、そして「我ー汝」の関係性が、ほんわりとかもしれないが、ある。
・「我ーそれ」も悪いわけではない。結果に重きを置くような場合において。そして価値を結果にではなく、関係性に置いているような状況においては、誠実な、本当の自分としての在り方がふさわしい。
・多くの場合、自分の本当のコアの感じは何なのか、ということを見ていく必要がある。自分の良心や宗教や、は、政府からのイントロジェクションではなく。自分の本当とは何なのか。
(例)よくカップルの間に起こるコアの問題としては、どれぐらいコンタクトして、どれぐらい引くのか、そこのところ。ひとりは常に接していたい、離れる時間はちょっとにしたい、でももうひとりは、もう少し離れている時間が必要である、コンタクトはもう少し少なめがいい。そこはなかなか妥協ができないところ。ひとりは常に引っ張っている。もうひとりは常に逃げている。その場合は、二人が同じでなければいけないということではなく、それぞれの範囲、自分はこれぐらいの範囲のところ、相手はこれぐらいの範囲のところ、で、その重なるところがある、ということが大事。完璧に一致するのではなく。それで、時にはがっかりすることもある。でもそれはそれでいいんだ。人生は完璧なものではないのだから。
ふうん。「ゲシュタルトの祈り」に込められた背景、というものにびっくりした。
なんというか…私も、「クールだよね。でもそういったことが本当、なのよね」と思っていたので。
そうか。妥協に妥協を重ねて。
同じ言語を話していても。同じ文化圏に暮らしていても。異文化交流ぐらいの違いが、「我と汝」の間には横たわっているのか。
そうかもしれない。
その「異質さ」に対する自分の対し方、を見ていくのか。
フリッツの表層的な「偽悪」さに惑わされてはいけないのか。
フリッツ・パールズに会っているらしい、レズニック博士に、
どんな体験だったのか、それ以後、フリッツとは異なるどんな歩みをされて来たのか、聞いてみたい気がする。
画像は「なになに?」というときのアンジー。
アンジー、ごめん。今朝はちょっと早めに終わったから、今から散歩、行くよ。カウンセリングルーム 沙羅Sara
あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。
明けない夜はありません。
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