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プロセスに焦点をあてると「機会」が得られる〜ロバート・レズニック博士のコンテンポラリー・ゲシュタルト4〜

2021/06/03
プロセスに焦点をあてると「機会」が得られる〜ロバート・レズニック博士のコンテンポラリー・ゲシュタルト4〜
29日の続きです。

<質問2> 第二幕の問題と思って来ているクライエントに第一幕に気づいてもらうことはとても大事なことだと思うが、あまりそこに触れたくないクライエント、抵抗があるということに対してはどう考えるか


・最終的には、いつも困った状況になっていて、その状況がどんなふうに生み出されているのか、にフォーカスすることを、繰り返し促していく。

・元々の困ったところを見たくない、感じがしているクライエントは、その見たくない感じ、はどこから来ているのでしょうね、とそこに目を向けてもらうようにする。

その人の今の状態をこちらから変えようとするとか、その人が今やっていることをやめさせようとするとかではなく、どうもそこをやりたくない、というその気持ちがどこから来ているのか、そして、その気持ちが、今悩まされていることにどう関係しているのか、どう「寄与」しているのか、ということを見ていってもらう。

・最終的な結果、「あなたは直したいと思っているような傾向があり、そのことに私が気付いています」ということを相手に伝えることもある。

・「何回ぐらい、それを試みてみましたか?」「何回ぐらい試みたけど、うまくいかなった、ということがありましたか?」あるいは「一度はうまくいったけど、続かなかったということをどれくらい繰り返して来ましたか?」ということを聞く。「ダイエットを何回試みたか?」と聞くと大抵は笑う。100回ぐらい試みているから。「100回試みて、それで次にあなたはどういうやり方をするのか、どういうふうに違ったやり方をするのかに、私は興味があります」と伝える。

 

<質問3> クライエントのプロセスに焦点を当てると、自然と変化が始まる、と考えてよいのか?

必ずしも、いつもそれで変わるというわけではない。しかし、以前には持っていなかった「機会」が得られる。新しい機会が。
・そこで新しい機会、新しい可能性に気がつくわけだが、その可能性に対して、何もしない人もいる。川の例で言えば、上流でゴミを捨てている人に対して、ゴミを捨てさせないようにするということが考えられるが、それをする人もいればしない人もいる。新しい可能性に気づいたのに、それについて何もしない人に関しては、「あ、しないんですね。そこに何があるんでしょうね?」と、そこにまた興味を持つということをする。
・そして、だいたい、元々の問題というのは、川の上流のように外側にあるものではなく、内的なもの。
・何かやろうと思った時にはやらないってことなんだ、私の場合は。やる代わりに意図を掲げているんだ。それを3回も4回も100回も繰り返してたら、それは問題になっている。それが内的なプロセスとしてある。
・今、気づきの域値が下がったので、つまり、明日車を洗おうと思った時に、そのことにより気づきやすくなる。あ、また同じパターンだ。
・その意図が私に与えてくれるというものは、潜在力の合成的な、…本当にやってはないけれどやった気になる、ということ。
やるつもりなんだ!ということによって、実際にやっていない自分を直視しないで済む。

<質問4> クライエントとセラピストの違いによって気づきがあると言われたが、レズニックさんのビデオを見る限り、非常に受容的で共感的だった。実際のセラピーにおいて、レズニックさんが「私はクライエントとは違う」と明言されることはあるのか? あるとしたら、どういう場合か?

・テクニックとして、そういう違いを見せることをしているわけではないので、悲しいと感じたら悲しいと言うし、嬉しい時は嬉しいと言うし、思ったことを表現している。その気持ちがクライエントと共通している場合もあるし、違う場合もある。
クライエントから影響を受けるということに対して、自分をオープンにしている。インクルージョン、包含するということに関して。
・でも、いつもいつもクライエントと同じというわけではなく、自分はそれは気に入らないな、と思うこともあるし、自分はそれに同意できないな、と思うこともある。
役回りを演じているというわけではなく、そのままの自分でいるということ。そこに「臨床的な判断」を持ちながらも、そのままの自分でいるということ。
ここで言う「臨床的な判断」というのは、今自分の感じていることをシェアすることが、この人のコンタクトを深めることになったり、あるいは維持することに役立つのであれば、それをシェアする、ということ。
・そこでの「臨床的な判断」が、このコメントをするにあたってのサポートが、まだそれほどない、ということであったり、もし私がこれを言ったら、きっとコンタクトを減らしてしまうだろうな、あるいはダメにしてしまうだろうな、という時には言わない。
そのままの自分でいる、誠実にいるということに対して、調整というものを加える。でもそれが唯一の調整。
でも、本当にそう思っていないことは言わないし、何かを作ることもしない。


…なるほど。
繰り返し繰り返し、「クライエントから影響を受けるということに対して、自分をオープンする」「それを伝える」という言葉が出てくる。
「今、ここ」で、自分の内で起こっていることをクライエントに伝えることで、今のクライエントに影響を与える「機会」も生じるかもしれない、ということか。
それは意図するものではなく。「もたらされる」ものとして。

それから。唯一の「調整」は、思ったことを言わないこと。思ってもないことを言うのではなく。
なるほど。「沈黙は金」であるかもしれない。あ、いや、本来的な「言うより言わない方が、より多くを伝えられる」という意味ではなく。
「対立を生む」ことがクライエントの、自分へのコンタクトを深めることにつながらない、と判断される時には。(それを「臨床的な判断」と言うのか、と知りました。)

ここで、ワークに入る。

<ワーク1>の後のコメント
・ワークはまずコンタクトから始まった。そしてそのコンタクトの難しさ。その後すぐにサポートに移った。
・ローラ・パールズはこう言っている。「ほとんど全てのワークが、コンタクトの問題、あるいはサポートの問題から始まる。そして多くの場合、コンタクトの問題から始まる」と。
・そしてその後すぐに、そのコンタクトの難しさの下にある、サポートへの問題へと移っていくんだ。
自分の持っているサポート以上に自分のコンタクトはよくなることはない
・自分をサポートする最もよい方法は、自分がどこにいるのか、ということを直面すること。自分がいる場所を変える必要はない。ただ自分がどこにいるのか認識できることが重要。
何かを怖れている時には、自分のサポートは、その怖れの中にある。自分が行ったり来たりの状態になっている時には、自分のサポートはその行ったり来たりの中にある。
セルフサポートというのは、自分の状態を直面する、はっきりするという中にある。それがいい状態であれ悪い状態であれ、不安な状態であれ、どんな状態であれ、自分の状態をはっきり知っているということがサポートになる。
自分が今どのような状態なのかということを、はっきり知った時に、私たちは自分の足で立つということができるようになる
・時にはそのサポートが良くない感じの中にもあるんだ、ということを覚えて置くことが、時には使い手となる。
・それを認識し、それを自分のものにすることによって、自分が整合性の取れた状態になる。そうするとサポートが得られる。
・最初ははっきりしなかったが、プロセスが、10分から15分ぐらいの間に現れてきた。近づいたり離れたり、というプロセス。
・1回だけだとそれがプロセスなのかパターンなのか、ということはわからない。それが何回も何回も繰り返されている場合には、これは少なくとも目を向けるべきものなんだな、ということがわかってくる。
・人によっては、見られる、ということがとても難しい。そしてまた見るのが難しいという人もいる。彼らの、相手の目を使うのが、心地よくない。だからそこは質問するのがいい。「これぐらいは、どうですか」「これぐらいはどうでしょう」と。

<質問①> 自分が行ったり来たりしている時のサポートは、自分のいる場所を特定する、自分のいる場所を認識する、というところの必要を教えていただいた。そのセルフサポートのためにセルフサポートが必要だということをおっしゃっていたと認識している。自分の位置を確認するためのセルフサポートの方法とは何か?

行ったり来たりしている時に、少なくとも自分は、あ、行ったり来たりしているんだなということに気がついて、それを認識するということはできる。そしてそれを口に出して言うこともできる。もうそれをしたら、既にそのこと自体がセルフサポートになる。
対話型のワークにおいては、クライエントがモデルを得ることができる。というのも、セラピストがその瞬間、その瞬間の自分の立ち位置を報告してくれるので、あ、こう言うふうにやればいいんだな、というモデルが得られる。ほとんどのクライエントは。そんなに洗練されているわけではない、そういうやり方をしているわけではないので。
やり方がわからないと言うよりは、それをされることが良しとされるかどうかがわからない。クライエントには。
・日常生活の中の会話の中で、「今、私の心臓がドキドキしているの」とか言わない。あるいは「今、ちょっと緊張しているの」とか。あるいは「今、あなたが私のことをどういうふうに思っているのかな、と気になっているの」とか言わない。だから、セラピストがそれをやってみせるのだ。そうするとクライエントも、あ、今ここではこういうことをやってもいいんだ、ということを思えるので、その許可をもらえる気分になれる。

<質問②> コンタクトをしてサポートに入っていくと言われた。そのコンタクトは、今起こっている現象を、今ここにいる状態をありのままにクライエントに伝えていくということと、今、伝えたことに関してどんなことが起こっていますか、ということの双方向のコミュニケーションを取って、セラピスト側にも何が起こっているかを伝えていく、という、セラピストは自分自身にも出会っていくし、クライエントにも出会っていく、ということがコンタクト、ということでいいのか?

・コンタクトというのは、今ここでの自分の体験に触れるということであり、今ここでの相手の体験に触れること。神経を見ると、シナプスがあって、神経集団がそれぞれにあって、その間に空間があって、そこでシナプスする。コンタクトはそういうようなもので、集団と集団の間で起こる火花のようなもの。そこに、そのままの自分として触れるということ、そして相手もそのままの相手でいるということ、そこで起こってくる源流のようなもの。その、即時の体験としての源流、他のことをあれこれ話したとしても、それはただの会話で、それはそれでいいが、コンタクトというのは、すごく特別な会話のようなもの。今ここでの自分の体験でもって相手に触れるという、それがコンタクト。

<質問③> 「何もしない」というのは、今ここにいる時には何もしない、というそれ自体がサポートになるという理解でいいのか?

・その可能性はあったし、結果としてサポートになっていったけれど、それを言った時にはそれがサポートになるかどうか、まだわからなかった。あのように言ったのは、ただ、クライエントが「僕は何をしようとしているんだろうか」といった余計なことを考えずに済むように、あのように言った。
・サポートというのは、そういうふうに外から来る場合もあるし、あるいはセルフサポートは内からのもの。今この瞬間の自分は何者なのか、というところを認識することによって、セルフサポートが得られる。それは本当に興味深く、複雑であるとともに、とてもシンプル。自分が今している体験を特定した時、はっきり認識した時に、そして相手にそれを伝えたいなと思った時に、電流が流れる。それをシェアすることによって。
・コンタクトをするための特別な場所を誰か特定の人が持っているというわけではなくて、自分が今どこにいるのか、つまり自分が今どういう状態なのかということを認識した時に、そのコンタクトのための材料が手に入る。

<質問④> 今のコンタクトとサポートの話だが、クライエントと母親との話が出ていた時に、レズニックさんは、その両者の間のコンタクトということを促すことをしなかったように思うが、それは、レズニックさんのやり方なのか? それとも理論的なバックグラウンドがあるのか?

・良い質問。常に部屋の中には正当性を持っている人が二人いる。常に複数いる。正当性を持っているというのは、これからこの部屋の中で、そこに注目して見たいとするその鍵があるだろうと思えるものが常に複数ある。どれか一個だけではない。
・その「図」、明らかにしていくべき「図」、それはあの時、クライエントにとってのお母さんであったかもしれない。でも、追っていくべき理に叶った「図」だったと思う。
・だが私は、その時、部屋の中に現れていた別の「図」を選んでいた。それは行ったり来たりという、その状態だった。
そのどっちにも私は気づいていたが、私はいつも、「より新鮮な魚」の方を選んでいる。もしお母さんの方を選んだとしたら、クライエントの自覚しかない。でも、今ここで起こっていることを選んだとしたら、2つの自覚が、つまりクライエントの自覚とセラピストとしての自分の自覚との二つがあることになる。
そして今ここでの行ったり来たりの状態に過去のお母さんとの経験が関わっているとしたら、それも、今の状態を見ていく中で、また出てくるはず。
・追うべきではない「図」があるとしたら、それは今ここの部屋の中にはない「図」。理論的な、あるいは何か自分で解釈でもって持ち込んできた「図」。それは追っていくべきではない。


今、レズニックさんの言葉を追っていて、コンタクト、ということに関して、精神科医、木村敏さんの「人と人との間の病理」というテキストを思い出していた。
その中で彼は、精神的に病むということは、人と人との「間」で生じることなのだ、としていた。
神経シナプスも、繋がっているのではなく、空間がある。その空間での神経伝達物質のやりとりがある。
そのシナプスのやりとりのように、相手の神経、…もっと言うと、魂と「繋がれた」と思う瞬間、「対話」は生まれる、ということか。

そして、セルフサポート。
今の自分の状態を認識し、さらに相手に伝えた時に、すでにセルフサポートの状態にある、ということ。
認識するだけでなく、シェアする、ということが鍵なのだ、と、レズニックさんの言葉を拾いながら、感じた。


セラピーの中で現れてくる「図」は一つではない、ということ。
どの「図」を選ぶかは、より「新鮮な魚」の方を、と。あ、やっぱり「フレッシュ・フィッシュ」なんだ!
なるほど! 今ここでないことは、クライエントの「記憶」に頼る「図」であるから、異なった「見方」は生じにくい。
でも、今ここで展開されることについては、2つの流れを示すことができる。
そして、私がよりびっくりしたのは、「そして今ここでの行ったり来たりの状態に過去のお母さんとの経験が関わっているとしたら、それも、今の状態を見ていく中で、また出てくるはず」という判断。
そうか。無理にそこに焦点を当てずともいいわけ、か。なるほど。

まだ、1日目のワーク2のコメントと質疑応答が残っている。
今日の分でだけで6000字を超えている。
うーん。ここでやっぱり、切りますか。

画像は、2年前に奈良・吉野の十津川村の「谷瀬の吊り橋」に連れていった時のアンジー。
吊り橋の揺れが怖くて、固まっていました。(この後、抱っこを要求し、しがみついて来ました。)
うん。こんなふうに、怖くてコンタクトを取りたい時も、コンタクトを取りたくない時も、両方ある、ね。

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