いよいよ、終盤。
さすがに。ちょっと疲れを感じる。だって。コラム1つに3、4時間費やしているもの。
もう終わりたい気持ちが半分。
残り半分は、レズニックさんの言葉を最後までもう一度確認しておきたい、という欲望。
欲望が、ほんの少し上回って。それで文字起こしを始める。
<SV1 解説と質疑応答>
・酒にも煙草にも言えることだが、ワーカーはそれがバウンダリーに関するものだということに気がついていた。そしてそこにはお母さんが関わっているのだろうということも。プライベートな部分で。
・セラピストが、それが「おしゃぶりなんだよ」というふうにクライエントに言ったとしたら、その「おしゃぶり」というのは、おそらく、そのセラピストにとっての問題。
・人によっては、男性の場合は、煙草を吸うというのが、男の象徴だったりする。女性の場合は、煙草を吸うというのは、洗練された自分、という、その象徴だったりする。だが、そうした意味付けというものは、クライエントから出てくるものでなければならない。(今回)セラピストが何かしらの意味を、ワーカーに押し付けてなかった、というのは、とてもいい。そして、セラピストはちゃんとワーカーと共にいた。
・そしてもちろん、禁煙って難しい。だが、ほんの短い10分休憩の間にも、どうしても吸いたくなるというのであれば、ニコチン依存ではない。
<質問> 吸いたい、そしてやめたい、そのテーマがバウンダリーの問題だというところがわからない。
・たとえば、もう禁煙するぞと決める。それは自分がもうこれをしない、という明確な印をつけること。その印、乃至は意図が、バウンダリー。
・このことを考えることはする、煙草を見ることはする、でも吸うことはしない。バウンダリーを設定しているとき、それは「制限」とも言える。すると、制限を破ったり、あるいはバウンダリーを破ったりすると、それはもうはっきりとわかる。
・先程、私自身の禁煙のことを話したが、私は本当にもうちょっとでもふかす、ということがしないで済むという確信が得られるまで、そのバウンダリーを引くということをしなかった。
・バウンダリーという言葉は、一番いい言葉ではないかもしれない、ここでは。なぜなら、バウンダリーというものは、多くの場合、外側から他の人、あるいは何かによって、設定されるものだから。だが、その、たとえば何らかのバウンダリーを引いたのが自分であったとしても、あるいは何らかの意図を掲げたのが自分であったとしても、それをした後、何か誰かにそれをさせられたみたいな気持ちになることがある。そうなると、もうやなこった、食べたければアイスも食べるし、薬も使うし、お酒も飲むぞ、みたいな気分になる。人からあれこれ指図されたくないよ。だけどそれを元々望んだのは自分だった。そのことを忘れてしまう。
・時には、ニコチン自体がニーズである、ということもある。煙草自体がニーズである、ということもある。その物質を欲している、麻酔効果を欲している、という場合もある。でも必ずしも、いつもそうではない。時には吸い始めた時には、それそのものがニーズだった、でも。たとえば、まだ子どもなんだけれど、大人ぶりたい時。その時には、大人ぶりたいから、というニーズで吸い始めたのだけど、25年経った今、もう大人ぶりたいような年齢ではなくなっているのに、吸っている、今はニコチン依存症になっている、というそういう場合もある。
・まだマッチョでありたいというようなニーズがあったりしたら、フィルターのところを取って吸う、というようなことをする。それが本当の男だから、みたいな。
「意味づけ」はクライエントから出てくるものでないと、押し付けになる、か。
そうね。確かに。私にとっては、ちょっと耳が痛いことかも。
無意識に、やってしまっているかも。それは言葉にせずとも、伝わるような気がする。
フラットでいること。それがフリーでいられる条件である、ような気がするけど。
なかなか。難しい。
それから。「バウンダリーを引いたのが自分であったとしても、それをした後、何か誰かにそれをさせられたみたいな気持ちになる」。
あるよ、それ。随分あった。
この歳になって、ようやくそれが自分の望むことなのか、どうなのか、を考えるようになった。
一旦、引いたものでも、スッキリしなくて、あとで考えて、「引き直し」することも、多々あった。
カッコ悪い気もするけど。
それでも。納得が大事。
<ワーク5 解説>
・(ワーカーは)◯◯(不明)を擦っている動作で、時々、抑えようとしているように、そのエネルギーを抑えようとしているように見えた。多くの場合、他の人の方に自分が向かっていくのが難しいのは、どういうふうに見られるのか気になるから。今度の場合、他者によって、どのように自分が見られるのか、というところが気になるからだ。でも必ずしもいつもそうではなく、だから「そうなんでしょ?」とこちらから決めつけることは今回もしなかった。だから最初に、その、気になっているのは、他の人からOKじゃないと見られることなのか、あるいは自分がOKでないと思っているのか、どっちなのかということを聞いて確認した。ワーカーは最初は自分がOKでないと思っていると言っていた。
・そのワーカーの視点を、私は尊重していった。だけど実際にそれを体験してみると、ああ、本当は他の人からどう見られるかが気になっていたんだな、というその気づきに至った。ワーカーは正直な方。そう言ってくれた。さっき言ったから、もうそうなんだ、というふうに、そこにこだわることなく、実はこうだったんだ、と、スッといってくれた。
・そういう移り変わりを見る時に、ああいうふうに、クライエントの考えとか気づきとかが、移り変わる時に、私が大事にしているのは、いかに私が自分の思っていることを表現するか、ではなく、自分がクライエントにどのような印象を与えているか、そこのところを尊重している。そしてそれも、何か◯◯なものが付き合えるものではもちろんない。
・私は自分が相手にどういう影響を与えているのか、どんな印象を与えているのか、そこを気をつけていきたい。でもだからといって、自分自身を諦めたくはないし、何かのフリをするということもない。もし、自分が何かのフリをして、それでもって相手に好かれたとしても、それでは自分は安全ではない。
・ワークが時に魔法のように見えるということはわかる。私が最初にフリッツ・パールズのワークを見た時、魔法だと思った。
・彼にとってとても大事だったことは、そしてそれは私にとっても、もっとずっと大事なことなのだが、教えることができる、ということ。教えることが可能なものでなければ、その人だけのものになってしまうので。ワークを教えることができるからといって、それを学んだ人が、その先生と同じになるというわけではない。私のワークはフリッツのワークとは違うし、そしてフリッツが今生きていたとしたら、40年前とは違うワークをしただろう。
・私がゲシュタルトセラピーに魅かれる、その理由の1つは、自分自身である、ということを励まされるし、サポートされる、そのこと。
・これまでも、他のトレーニングをいろいろ受けてきてはいるが、どのトレーニングもこういうふうにしなさい、ああいうふうにしなさい、と言われる。こうあれ、と。
・たとえば私はユーモアが好きだ。それは私という人間の一部。ある映像を見た人が、それを見た後で、「良いセラピストであるためには、ユーモアがなければいけないですか?」と質問した。私は「いいえ」と言った。「あなたはあなた自身であらねばならない」。本当の自分であるということは、そのために誰か他の人のようになるということではない。そうすると、セラピーはもっとずっとラクになる。
教えることができるということに、そんなに重きを置いていらっしゃるとは思わなかった。
そうね。再現性がないと、それは個人に留まる。
でも! 教えられた人と同じになることではない。その人自身であること。
しかし、何が私自身であるのか、を捉えるのはなかなか難しい。
まあ、それは。私も変化するものだから。
その時々の自分を暫定的に捉え、今はこんなふう、とカッコ付きで進めていくしかないのかもしれない。
長い2日間の振り返りがやっと終わりました。
お付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。
画像は、おすましのアンジー。
アンジーも、家に帰ればパソコンに向かってばかりの私に、よく付き合ってくれました。
ありがと。