11月3日のフォーカシングの後、4日の夜にゲシュタルト仲間のzoom自主練グループである、TDN(「対話deナイト」)に参加した。
その日は参加者9名。3名ずつの小グループに分かれてCFOをした。
(あ、今気づいたけど。「対話deナイト」のナイトは夜に行われるミーティングを指していると思ってたけど、「deナイト」って、「でないと(いけないよ)」の意味も含んでいたのかな?)
主催者は、アットランダムにグループ分けしたらしいのだけど。
以前から見知っているAさんBさんとのCFOとなった。
ワークを受ける番が来て。
私は前日にフォーカシングのセッションを受けたことを話し、その同じテーマをゲシュタルトで扱うとどんなふうになるか、それを知りたい、と言った。
Aさんがファシリテーターで、ワーカーは私。Bさんオブザーバー。
ここ暫く立て続けに起きた、私の交友関係について話す。3人の友人とのこと。
「もし、私が何か間違った選択をしたとしても」
ひとり目の友人との話で、前日のフォーカシングセッションの時には出てこなかった言葉が出てきた。
「いずれ私は私のありように添ったものを選択し直すだろう、と思って、待っていてほしかった。」
「そんなふうに、私は選択し直すだろうと思えないのは、…そういう人だと思えないのは、私が信じられない、私に対する信頼がないのだと、私には思えた。」
それは、ゲシュタルトだから出てきた、というのではなく、たぶん、前日のセッションで「その時私は何を感じたか」をやったからだと思う。
だから、その時の私の気持ちに、より近しい言葉、が出てきたように思う。
…ああ、そうだ。この人は私、という人間を、根本的に分かってないんだ…と思ったんだ。
根本的なところでの理解がない、ということは、絶望的だ。
ああ、やっぱり、ダメなんだ…。
つい最近、そのことについて彼女と話をしたとき、そんなふうに感じた私は、上手く言葉が出て来ずに「…もうちょっと待ってほしかった」と言葉にするのが精一杯だった。
そして、ふたり目の人の話に移った。
この夏に言われたことだけど。それは直接ではなく、メッセンジャーで書かれた言葉だけど。
それから2ヶ月半。何かの折にふと思い出されては腹が立って。
「彼女に最初に会った3年前、私には聞きたいことがあった。でもそれは、彼女の根幹に関わることだから、私は遠慮した。
もうちょっと親しくなってからにしよう。私はそういう配慮をした。」
「だのに相手はズカズカと私の根幹に関わることに入り込んできた。…それも私の調子が悪くて弱っている時に。」
余りの無遠慮さに、その時の私も言葉を失ったのだった。
相手の言葉を呑み込んでしまって。…呑み込んだことにも気づかなくて。
その呑み込んだ言葉は、消化されずに私の喉元から喉元下あたりにいつまでもあって。それが私を息苦しくする。
(…この2ヶ月半のことを思い出しながら、今、思ったけど。
思い出しては腹が立ったのは、その喉元に詰まったままのものを、腹の底から吐き出そうという行為ではなかったか?)
「子どもではないから、そんな、相手に直接言うことではないけど、」
私はファシリをしてくれているAさんにそう話し始めた。
「でももうあなたとはつきあわない。さよならっ。」
Aさんは「さよなら」を笑みを浮かべないで言ってほしい、と言った。
えっ? 私は笑みを浮かべてた? …それで自分の顔に注意を向けると、確かに、頬の辺りが上に上がっていた。
「さよなら」。私は毅然とそう言った。そして、ワークを終えた。
オブザーバーのBさんからのシェアで、私は、何かを説明する時には、主語述語が明確である、らしいことを知った。
「その、明確な主語述語が崩れるときがあったんだよね。身体もくねくねし出して。」
「何か、身体の上の方に立ち昇っていく感じ。(こんな表現だったかどうか…。ちょっと定かでない。)」
「それが、降りてくると、身体のうねりも止まって、言葉が出てくる。(これもこんな表現だったかどうか、正確には思い出せない。)」
ふうん。そうなんだ…。
私は私の身体の動きに、まるで気づいてなかったから、びっくりした。
パソコンでzoomに入ったから、パソコン画面に向かっていて、その時、回転椅子に座ってたけど、…そういえば、何かを思い出すように上を仰いでいたような。
その時、身体を揺らしてたんだ…。
全てのワークを終えた後、Bさんは「思考を止めて、感情をって言うけど、思考と感情の境目ってそんなきっちりあるんだろうか、と思っている。」と言った。
「思考を止めると、ある種のトランス状態に入るよね? しかし、それはよろしくないんじゃないかと僕は思っていて。」
「どのみち、自分の感じたことも、言葉で伝えないと伝わらない。それ(=言葉化すること?)を『思考に走っている』というのは間違いじゃないか?」
その問題提起は、私にはとても興味深いものだった。
たぶん私は…言葉での表現が人より自在だと思う。
私の言葉を「分かりやすい」と言ってくれる人もいる。
それは、私は言葉を私の内(なか)で廻らせる、からだと思う。
だから、廻らせきれていない言葉は、私から出てこない。
(…やむなく、とりあえず言葉にすることもあるけど、私にとって「落ち着き」が悪くて、ずっとその言葉でよかったかを気にしてる。)
時には、何ヶ月も、何年もかかることもある。
私は、言葉にならないものはそのままにしておいて、何年でも待つ。
私の言葉とはそういうものだ。
だから、言葉は思考だ、と言ってしまわれると、ちょっと辛いものがあった。
「思考」と「感情」の境目をもう少し丁寧に考えたい気持ちが私にも出てきた。
前日受けたフォーカシング。フォーカシングは言葉を手がかりにする、と私は思った。
「キュッと」というオノマトペは、明確な身体の「ことば」だった。
その「身体の言葉」を手がかりに、もう少し、言葉を繋いでいく。すると、私の見ている像がよりはっきりとする。
リスナーは、その場における自分の身体と、これまでの「自分の人生の経験」で、フォーカサーの見ている像を「追体験」する。
「対話によるゲシュタルト(関係性によるゲシュタルト)」とは、限りなくフォーカシングに近いものではないだろうか?
フォーカシングとは、エンプティーチェアのように、ワーカーの心象風景を外に具現化する方向ではなくて、フォーカサーの内(なか)に、そしてリスナーの内にもその心象風景を具現化する、装置のような気がする。
その「追体験」はまさしく言葉によって生み出される。…それも、フォーカサーとリスナーの内(なか)を廻らせた言葉によって。
ふたり目の人に言われたこと。
ゲシュタルトが、私が調子を取り戻すのに役に立たないのは「賞味期限切れ」だからではないのか。それなのにそれを手放せないのは、それに費やした私の過去の時間を捨て切れないからではないのか。
私の編み出した「気づきノート」方式カウンセリングも、丁度、ブラッシュアップするのにいいチャンスなのに、なぜそうしないのか。
自分に役立たないものを「商品」として売るのはどうなのか。
私は辛うじて、「クライエントにはカウンセラーが伴走する。自分でそのカウンセラーを想定して検証したらいいのに、と言われても本当にしんどい時には何もできない」「どうも、カウンセリングに対する考え方が違うように思う。」とだけ言った。
ファシリテーターやリスナーの存在は、辛い状況から抜け出すのに必要だ。
それは、人は苦しいとき、人との関わりでしか、視界は開かれていかない、ということだろうと思う。
自分で何もかも、自前でやっていく、というのは、自立しているように見えるけど、拡がりも生まれない。
私は、そういった、人とのつながり、対話できる関係を創っていきたいんだという思いを再確認した。
2日とも、とても豊かな恵みをもたらしてくれました。
画像は、生駒山麓公園にアンジーとさらを連れて行ったときの、アンジーの写真。
この2日間は、この時のアンジーのように、自分の足元、自分の立脚点を確認する時間になったのだと、しみじみ。