百武さんのワークショップにゲストとして来られた三村尚彦先生。
ワークをご覧になっての感想及び質問、それから現象学は何を明らかにしていこうとするものなのか、の言及が非常に興味深かったので、言葉を拾っておこうと思います。(小見出しは、私が勝手につけたものです。)
・僕の関心事から、百武さんと皆さんのワーク、やりとりを見させていただいて、興味深かったのは、…というか、逆に皆さんに伺いたいなあと思ったのは、メタファー、たとえ。
認知神経リハビリテーションにおけるボディイメージ回復の方法としてのメタファー
・フォーカシングでもそうだし、あるいは現象学の話でもそうで、今、僕が一番、力を入れているのが、「認知神経リハビリテーション」っていって、脳卒中とかで固まりになった方のリハビリテーション。日本では「運動療法」が主流なんですよね。要は麻痺で動かなくなった人、自分でコントロールできなくなった人に、他の部位を、簡単にいうと、筋トレみたいなことをすることで対応しようとするものですね。で、これは「therapy of exercise」、本来だったら「治療的訓練」と訳さなきゃならないところ、日本は「運動療法」と訳したので、割と、…簡単に言うと筋トレ系で、片っぽ動かないけど、もう片っぽを強くすれば、なんかその物事に対応できるようになるよね、という形なんですよ。
・ところが、「認知神経リハビリテーション」っていうのは、イタリアの神経内科医のカルロフェルベッティという人が、現象学とか哲学からのヒントを得て、要は、麻痺を起こした人って、自分の身体を自分の身体として認識したりイメージできなくなっているんですよね。だから、これ自分の腕だと思わなくなっているので、たとえば「自分の腕を冷蔵庫に忘れてきた」と言い出したりするんですよ。家族はそうすると「ああ、うちのおじいちゃん(または、お母ちゃん)は、脳卒中で麻痺を起こして、それでなんか認知症の症状で、おかしな発言をするようになったんだ、というふうになるんですけど、でも実際には違って、本当に物体みたいにしか思えないので、だから、たとえば、さっき冷蔵庫で見た、今、ここに腕があっても、これは自分の腕だというふうに認識がない、ボディイメージが完全に崩壊しているので、腕がない、という状態なんですよね。
・そうすると、あ、腕がない、あれ? そういえばさっき冷蔵庫を開けるときに、開けるのはもう片っぽの腕だと思うんですが、見た、となると、そしたら、最後に見たのはそこだから、冷蔵庫の中に置き忘れたのか、みたいな感じの発言をしたりする。なので、認知神経リハビリテーションっていうのは、「これはあなたの腕なんです。で、あなたは自由に動かすことができるんです」というボディ・イメージを回復させるというところからリハビリテーションをやるんですね。でもこれ、あるいは当たり前なんですけど、脳が血管障害、脳卒中ですよね、起こすことで壊死して体に麻痺が起こっているので、そうすると脳に働きかけないと基本的にはマズいって感じなんで、イメージトレーニングをしよう、と。
・イメージトレーニングの時に、結局、患者さんはこれまで自分が自由に歩いけたり物を取ったりできたのに、それができないという、すごい自分の中でも違和感がある体を生きるって感じになるんですよね。で、これってすごい主観的なので、さっき言ったように、単に5メートル歩けますととか、杖ついて10メートル歩けますとかではなくて、さっき言ったように、自分の身体感覚を取り戻すっていうことをしなければならないんで、だから、「今、あなたはどんなふうに身体を感じていますか」とか「今、世界とどんなふうに関わっていますか」っていう、そういう聞き取りから始めるんです。
・で、実際のリハの現場とかを見学させてもらうんですけれど、一応カルロフェルベッティがそういう時に患者さんの体の状態を聞きます。そうすると、患者さんはそれまで自分が生きてきた体と全く違うので、なんて表現したらいいのか分からないので、そうすると結局ネタファーに頼るんですよね。
・これはわかると思うんですけど、たとえば、初めてカンガルーの肉を食べたとしたら、どんな味?とかいうと、大抵、「なんか硬めの鶏肉のような感じ」とかなんかこういうふうに言いますよね。つまり自分が経験したもの、みんながある程度共有できるようなものにたとえるって必ずするんですよね。なので、メタファーっていうのが、非常に重要だ、となる。
・で、メタファーって普通はそういうふうに、今、曰く言い難いことをたとえてみるということによって、クライエントさんとセラピストが、そのクライエントさんの患者さんの身体の状態を一緒に共有できるっていうそういう使い方をしてるって感じなんです。
メタファーが、それを用いる人に及ぼす作用
・ところが、僕がカルロフェルベッティの著書を読むと、そういう面と同時に、メタファーで言うことによって、メタファーって明らかに言葉の、…さっきの話じゃないですけど、協調と言いたいんですけど、ズレるんですよね。実際、だから鶏肉食べているわけじゃないんで、鶏肉のようだけど、でもこれちょっと違うな、っていう形になって。それで自分の味覚に対して、より繊細にアプローチすることができるんです。だから身体の解像度みたいなものが上がっていくっていう、そういう側面があるんです、メタファーを使うと。
・だから、メタファーは単に自分の身体の状態を、よりわかりやすく表現して相手にもわかってもらうだけじゃなくて、自分の身体の感じをより繊細にしていくだとか。さっきまで感じていなかった別の側面に気づくっていう、そういう働きを持っているって感じなんです。
ジェンドリンの体験過程理論におけるメタファーの位置付け
・で、このメタファーの考え方って、ジェンドリンの体験過程理論の中でかなり重要な考え方としていて、ジェンドリンという人は概念、言葉と、感じられた意味、まあ身体の感覚、ですよね、この間にも二つの機能的な関係を7つに分けるんですよね。
・7つのうちの3つは平衡的な関係で、残りの4つは非平衡的な関係だ、と。平衡的っていうのは、要は「きれいに対応している」感じなんで、「あ、そういう感じなんだね。今僕が感じていることはこういう感じだよね」と、通常の理解を成立させるもの。これはある意味で、僕らの世界の経験の安定性を確保するために機能しているもの。で、ズレる方が、新しい意味に気づく。こういうふうに言えば言えるけど、あ、でもなんか違うな、と。さっき言ったように、カンガルーの肉は鶏肉みたいなんだけど、でもじゃあ鶏肉かと言われたら、違うよな、じゃあ、何が違うんだろうか、とかいうのは、食感かな?とか、最後の味かな? とかいってより繊細に感じられるようになる。
・その7つ(のうち)の、非平衡的関係のうちの1番が、メタファーという感じになる。ジェンドリン自身が、自分の身体で感じている部位をメタファーを使って言うことによって、それは自分が新たな側面に気づく、つまりさっき言ったように、「経験が動いていく」という契機になります、と。
ワークにおけるメタファーの効果
・かなり前置きが長くなりましたが、知りたかったのは、先ほどのワークでも、かなり効果的に意識的に、…百武さんが意識的に、と思うんですが、イソギンチャクが、とか、そちらに座ってみてください、とか、…えっと、その、奥さまが後ろから来る、だとか、…これ、実際には後ろから来ないですよね。家にピンポンって来るわけですから。でも背後に来るとか、娘さんの後ろに、とか、なんかそういうメタファーを言う。メタファーを言うと、たとえば後ろから、とかいうと、無防備な、とか何かそういうような形で、意味が喚起されるって感じに、僕には思えたので、かなりゲシュタルトのワークでも、メタファーっていうのが、すごい有効に、且つかなり意識的に使われているんじゃないかな、というふうに、素人考えなんですけど、思ったので、そのあたりを百武さんや皆さんに教えていただきたい、というのが、多分僕の中で一番大きなことですね。
エンプティーチェアを現象学的に考察する
・あともう一個は、座布団に座ってください、とか、椅子に座ってください、とかっていうのは、現象学的にいうと、感情移入の一つの典型的なやり方なんですよね。デカルト的偵察(?)っていう、藤沢の後期のテキスト(?)が、他者経験のテキストなんですけど、そこでは、さっきも言ったように、僕らは必ず身体的な存在なんで、今、ここにいて、こっちの向きから見てます、とかいう感じになるんですね。それをフッサールは「絶体的中心点」とか「絶対的方位中心」とか、そういうふうな言い方をするんですよね。
・つまり、私の身体って、いつも「ここ」なんですよね。「ここにいる」の「ここ」っていうのは、私の身体なんですよ。でも僕らは、そこに私がいるから、そこにいた人のように世界を見ることができる、とかっていう、そういう視点を交換することによって、他者っていうものの理解を通じて、そしてこの世界は私だけが生きている世界ではなくて、私たちが生きている世界だというふうに捉えていくという、そういう技能を展開するんですよね。
・で、その意味で身体の場所を実際に変えるというのは、他者とかあるいは他のものになってみるということの、非常に重要な契機となっていますよね。それをかなり意識的に置き換えをやっていることに感心させて貰いましたし、そこは非常に現象学的なものに思ったんです。
・とりあえず、メタファーについてなんかこう、これまでワークされたりとかして、すごい印象的で、こういうメタファーのワークって多いですよね。なんかこう、体験のあり方だとか、意味の見え方とか、そういうふうなのが変わりました、とかもしあったら、教えてください。あるいはメタファーに関して、どういう感じでワークされているのかを教えていただけたら。あるいはまた別のことを聞いてくださっても。
現象学は意識を身体の側から見ていく
・現象学はある意味「意識の哲学」なんですけど、そういう意味では西洋哲学の非常にオーソドックスな流れなんですよね。ですけど、20世紀の大きなムーブメントになるんです。それはなぜかというと、身体性に注目するからですね。ここが決定的に違うんですよ。つまりそれまでの、…哲学史をご存知でしたら、ドイツ観念論といわれるカント、フィフィテ、ジェリング、ヘーゲルっていう、まあ強固な哲学の流れですよ。あれはもう全部、精神の話なんですよ。で、絶対精神とかいうのは、世界に対して、世界をどう変えていくか、で人間の自由っていうのはどのように実現されるのかっていうことを決定的に論じるものなんですよね。
・ヘーゲルがすごい大きな哲学者だったんで、それに対してキルケゴールという人とニーチェという人が、スタイル的には若干違いますけど、ざっくり言ってしまえば、いわゆる実存主義ってやつで、自分の生を自分で引き受けて生きていく、という在り方が重要でしょ? っていうようなことを言っていくんですね。
・で、そこから自分の生を自分で引き受けるっていうのは、まさにこの一回こっきりの世界の中で、特定の状況に生きてるっていうことになるんで、それで身体っていうのが、俄然注目されるわけですよね。身体を持っているからこそ、今ここにいて、僕と皆さんと、姿勢も違いますし視線も違うわけですよね。だからここでこの場を共有はしていますが、しかし全員捉えているものが違うんですよ。だからこそ、ズレもするし、あるいはそれで共感もできたりするし、という発想で、意識っていうものを決定的に、身体側から見ていくっていうのが、ある意味、現象学の特徴なんです。だからこそ、意識の哲学なのに20世紀になっても、新しい哲学だよねと言われるのは、そこの身体性に注目するからです。
ーーー無意識っていうのではなくて、意識の問題?
はい。但し、身体化されています。だが、身体化されているので、ある意味で「自動的」なんです。いちいち意識してやるんではなくて、むしろ身体が世界に対して反応してしまっている、とか、世界からの呼び掛けに応答してしまう、というような間接さ(?)。
ーーー過去に自分が望んでいたことが、今起っていることを引き寄せている?
そういう「語り」は、そこは現象学より、僕はどっちかというとジェンドリンの哲学で解釈しようとしますけど、ある意味、そういう形で語ることが、昔に思っていた思いが、今にも影響する感じになる。よく言うのは、過去の事実は、事実として成立してしまっているんですけど、過去の事実の意味っていうのは、今どう語るか、とか、今どう行動するかとか、今世界とどう関わるかっていうことによって、変わっていくという感じになりますよね。
なので、以前なんとなくこう思っていたっていうことが、今の状況や今の考え方によって、ある意味で非常にしっくりしない、あるいは違和感を感じたりとかするという、そういう仕方で私たちの生というか、体験っていうのは流れていく。なので、そういうふうに、だから引き寄せたんだ、というふうに解釈することは可能だ、と。
できごとにどう関わるかで意味が変わる
・ある意味、体験というのは、基本的にはやっぱり自分の体験、私の体験、私の人生、っていう形で、一定のまとまりを持っているんですが、現象学はそこに、でもそれがいつもオープンなんだ、というわけですよ。
・つまり、だから、何かが起こってきたら、さっき言ったように、それに対してどう関わるか、ということによって、その意味を変えて、まとまるっていうんですかね、そういうことができますよ、という意味では非常にポジティブだと思うし、そこをジェンドリンはすごい取った人だと思いますよ。
・ジェンドリンは、自分が新しい現象学者だと散々言うので、だから、世間からするとフォーカシングを作った心理学の研究者って言われますけど、本人はフッサールとか現象学を引き受けて、それでロジャーズのカウンセリングの実習を散々研究することによって、非常に体験がオープンで新しい意味を作り出して、そして、まあしんどいようなことをポジティブに受け取れるような、そういう(在り方)、私たちにとっては、体験の在り方、生の在り方をしてますよ、ということを主張した、そういう哲学者。なので、是非、オープンに。
うーん…。
この時のワークでワーカーが言った「背後から(自分にとって嫌な人が)近づいてくる」という感覚はメタファーでない、気がする。
たとえているわけではなくて、実際の体感覚ではないだろうか。それも、時間や空間、物理的な制約なども飛び越えて感じられる感覚。
メタファーというと、なんていうか…もちろん、過去に自分が体験した感覚にたとえるわけだから、実際に今体験していることではない、そういう意味で時間を超えているわけだけど、それを持ち出すときには、明らかに「過去の体験」として、言葉を探っている気がする。
ワークの時の体感覚というのは、そういう「過去の体験」を過去のものとして、ではなく、今ここでまさに体験している、という、現在進行形での「できごと」のような気がする。それは決してメタファーではない。
私も質問した。
ーーーそうしましたら、ゲシュタルトも固着したものを、動きを止めないでいる状態に戻す感じなのですけれど、現象学も過去の意味は現在によって…過去の出来事は変わらないけれど、意味が変わっていくということでいいますと、動きを止めない、ということで共通するというふうに見ていいんですか?
・そうです。基本的に現象学は、意識っていうのは決定的に流れなんだ、という感じですね。その流れは、ただ単にズラズラズラって流れているんじゃなくて、「流れつつ立ち止まる」っていう、そういう言い方をするんですよ。だからそこだけ取ると何か禅問答とか理論哲学っぽいんですけど、でもある意味、そういう形なんです。
・でもさっき言ったように、閉じてるけどオープンなんだよ、なんですね。閉じてたらオープンじゃないし、オープンだったら閉じてないんですけど、でも僕らはそう。
僕らの体験の動き自体が、一種、一見矛盾するような仕方で流れていく。多分、そこがね、さっき言った、言語で考えるというのは、僕らどうしてもロジカルに考えているので、そうすると、閉じてるんだったら閉じてますよね…オープンだったらオープンですよね… って感じなんですよ。
・でも体の感覚っていうのは、やっぱり、閉じてるんだけど開いているよね、とか、なんか白いんだけど黒いんだよね、という感じなんですよね。
・で、そこを拾っていきましょうっていう話なんですよ。だから、論理的だと、いやそれおかしいでしょう、白だったら白だし黒だったら白じゃない、黒でしょ? って感じなんですけど、でも僕らも世界の関わり方というのは、むしろ、そういうはっきり言語で分けられないような在り方をしているわけですよね。
・そこに注目することによって、むしろ体験や生が流れていくってことで、それで世界との新しい関係とか、あるいは前ちょっとしんどかったのを修復したりとか、そういうことができますっていう、そういう考え方。
ーーー二元論に立たないってことですね?
はい、そうですね。二元論ではないですよ。「内蔵的な一元論」です。体験から離れて体験を流れるという在り方は、もちろんそれは自分に対して反省的に見るってことはありますけど、でも僕らの通常のダイレクトな体験というのは、まさにその体験の中で、行きつ戻りつ進んでいく、というそういう構造を取っているという感じ。
ーーーありがとうございました。
ここで「二元論」という用語を持ち出したのは、かなり意図的だった。もちろん「二元論」に立たないことは分かっていた。だけど、そういう用語をぶつけてみることで、この「状態」をどういった言葉で説明されるのか、に興味があった。
三村先生は見事にその欲求に応えてくださった。「内蔵的な一元論」! その言葉によって、視座が新たに拓かれた、気がする。
身体は物体であると同時に意識とか心という曖昧なもの
・現象学というのは、相関関係で見るっていうのが絶対的なんですよ。だから、林檎があります、私が居ます、とかではなくて、私と林檎がどのような関係を切り結んでいるか、という観点で捉えていく形なんで、ですから自分の体重がダイエット前とダイエット後では、もちろん…(不明)違いもあるし、そもそも…ショッケツする(?)ということの意味の違いもある。
・だからさっき言ったように、固定的な考え方ではないので、過去の事実も変えられる、意味を新たな気づきをもたらすこともできる。そういう考え方なんです。
・で、この議論自体は、…身体がそもそもそうなんですよ、身体というのは、物体であると同時に、意識とか心だっていう曖昧なものです、っていうところがあって、だから、そもそも僕らの身体との関わり方も、相関的なんですよ。だから科学、自然科学だったら、身長170センチ58キロです、とか言って、細胞で、アミノ酸とかで出来てますよね、という形ですけど、でも自分の身体は通常、うまくやっている時には、ほとんど透明化しているわけですよ。
・でも、なんかこう、たとえば痛みがあるな、とかいうと、急に物体として、私にいいものにならないものになっていく。身体も、そういう私のコンディションだとか、状況に応じていろいろに変わる。それは身体論でそういう解釈をしている。
ーーー小学生に、間主観性を説明するとしたら、どのように説明されますか?
間主観性って、Intersubjectivityですけど、簡単に言うと、私っていうのが複数化して「私たち」という世界になります、ということ。だから、たとえば、太郎くんは「これは僕の何々」というでしょう、でも太郎くんはひとりで世界に存在しているわけじゃなくて、お友達の次郎くんとか花子ちゃんと一緒にいるよね。そしたら、これ、みんなで、という視点でものに関わったりできるよね、というふうにして、その「みんな」というところから間主観的にというふうに。
あとはバリエーションでいろいろあるんですが、間主観性っていうのは、まさに、間に、こう(参加者が)丸くなっているんだけど、真ん中に、なんかこう、今日の(?)とか、僕の場違い感とかね(笑)、バーッとこう、立ち上がってくるよね、というようなものもあえて間主観的、とは言います。
ーーー何が起っているか、というのを見ていく、ということから、世界と関わるっていうことですか?
そうですね。もうだから、徹底的に世界としか関われないんですよ、僕らは。だから、これはハイデガーの言葉なんですが、僕らは「世界内存在」なんですよね。だから、いつも世界の中にしか居れない、ということで、かりに世界を俯瞰的に、世界ってこうだよね、って自分が観察者みたいな形になって見たとしても、それも世界の中に居る私のひとつの見方だ、と。
認知神経リハビリテーションは、身体感覚の解像度を上げて身体イメージを取り戻す試み
・理学療法士さんとか、確かに患者さんに、「どんな感じですか?」とか、認知神経リハはスポンジとかで体の感覚を聞いていくっていうのが典型的な課題のやりかたんなんですよね。その時に、スポンジで柔らかいのに、でもやっぱり緊張とかがあると、もの凄く固いって感じになったりするわけですよね。
・で、そうすると、本人が思っている以上にこの人はここに力が入っているんだな、とか、あるいは典型的なのは、固まりになると「振り回し歩行」といって、膝が曲がらない形の歩行になる。あれも運動療法だと、結局、杖ついてても振り回し歩行でも、距離が歩けるんだったらそれでOKだよね、って言って、保険的にはもうそれで歩けるようになりました、リハビリ完了です、てなるわけですよ。
・でもなんで、振り回し歩行になるかっていったら、本人の、脚の長さが違うっていう認識なんですよね。だから、いや、左足と同じでしょ、とか、曲がりますよ、というイメージトレーニングをやっていくってことが大事で。
・だから、もうわかりますよね、棒のようだって絶対言うんですよ。で、それであとは、今の神経外科の人たちは、棒のようだっていうことから「いや、棒じゃないですよね」って感じなんですけど、僕は今言ったフォーカシングとか、あるいはこのゲシュタルト療法のメタファーの使い方も、多分適用できると思うんですけど、その棒はどんな感じがしますか?とか、その材質は何ですか?っていうふうに聞いていくと、もちろん足のことなんですけど、当然またメタファーを使いますよね。なんかプラスチックのような、とか、いやなんかね、小金属、机の脚みたいな感じなんだよね、とかいうふうに言っていく中で、さっき言ったように、ズレから身体感覚の解像度みたいなものが上がって、そこからイメージを取り戻せる、とか、あるいは新しいイメージの仕方で世界と関われれば、おそらく運動療法よりは効果が出るって感じがありますね。もちろん運動療法で効果が出る人もいるので、運動療法で出る人はいいんだけど、運動療法で(効果が)全然出ない人とかにはかなり効果的だと思われるので。
ーーー他者の感覚が理解できないという人にも今の話が応用できますか?
・僕自身は直接はその辺はフォローしてないんですけど、認知神経リハは、単に片麻痺だけではなくて、失語症や高次の機能障害やあとはそういう自閉症のような精神疾患にも適用できるトレーニングだというふうに言われています。実際それをやっている人の中心はイタリアなんですよね。日本では多分まだ、どっちかというと、体が不自由であるとか失語にも認知神経リハの考え方を…(不明)。
・これもだから運動療法だと結局、言葉が出ないと思われているだけなんで、舌とか口とか喉の震わせ方のトレーニングしかしないんですよ。でも結局は状況の中で、人と関わるっていう形で発病するっていう…(不明)なので、これを語ることによってあなたは他者とどういう関係を築こうとしていますか?とか、あるいは何を伝えようとしていますか? っていうイメージを出させるというか、していただくことが認知神経リハの根拠なんですよ。
・自閉症とか精神的な疾患っていうか、そういう形の人にも適用できるというふうには言われていますし、やっているところもあるんですけど、多分日本ではあまりそこを深くやっている人は、いらっしゃるかもしれませんが、僕自体は知らないですね。
・距離感とか、本当に物理的に距離感とかが取れなくてコミュニケーションが取れないとかいうのは、そういう人とかもいらっしゃるみたいなので、他者の立場に立ってものを考えられないとか、他者の立場で世界を見ることができない、といったときに、距離感の異常とかというのもよく言われているので、そうすると身体のイメージと世界の関わり方を調整していく、っていう、そういう感じに多分なるだろうと。
・身体をあちらの椅子に座って、とか、こちらの座布団に座ってみて、とか、あれはかなりジウームウンテン(?)だろうな、というのを拝見していて思いました。
さっき言ったように、それをフッサールの「アルソプフィオトゲームArusopufiotogēmuー私がもしそこにいるとするならば」という、そういう視点で他者との関係を結んでいく。まさにそうですよね。フッサールの言っていたことを伝えてるなあと感心してたんですよね。
三村先生の言葉を追っかけていたら、一万字を超えました。
ジェンドリン哲学、そしてフッサールの現象学。まだまだ知りたいことがたくさんあります。
それにしても。どんな「問い」を投げかけるか、というのは深い泉の、どこまで深く水を汲み上げてこれるか、ということだと思います。
「問い」を立てることの意味も、併せて考えさせられました。
画像は、「天使の羽」という名称の玄関の照明。
ランプの光が四方八方に広がって天井に彩りを添えるように、新しい「意味」が、限りある生に、彩りをもたらしてくれますようにカウンセリングルーム 沙羅Sara
あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。
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