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私のフォーカシング・レッスン(4)〜人が感じることは、いつも未来志向〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈5〉

2022/04/12
私のフォーカシング・レッスン(4)〜人が感じることは、いつも未来志向〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈5〉

池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。


午前中に出された質疑に対する応答。

ーー「フォーカシングは身体感覚?」
フォーカシングって、よく「身体感覚」っていうふうに捉えられるけど、身体感覚じゃないんですよ、厳密には。
言葉になってないところ、なんですよ。だから、身体感覚っていうふうに思わない方がいい、と思います。
でも人間の意識は「身体化」されているので、たとえば今も、「海にぷかぷか浮く」みたいな、そういう感覚ってある訳ですよね。
それは「身体の感覚」じゃない、だから胸が苦しい、とかそういうわけじゃないけど、人の意識って必ず身体性を伴っている、というのがジェンドリンの重要なところ

ーー「どこに行きたがっていますか」という質問が結構ありました

それは、その悩み自体が行きたいところを知っている、という、そういう発想を僕は持っています。

人が感じることは、いつも未来志向。

意識がないもの、たとえばこのマイク、意識を持ってないので、これは故障すると「故障の原因は?」と過去の原因を、過去にどうやって製造されたかとかいう過去の原因を探す。

 

意識を持っているものの場合は、同じモデルでは考えられない。たとえばお腹が空いている時に「空腹の原因は?」なんて聞いてもしょうがない。

聞くのは「何が食べたいですか?」。だから、その空腹感は、それ自体何を食べたいかを既に知っている。お腹空いてきたけど、ラーメンじゃないな、とか。昼間からハンバーグは食べられない、とか。空腹自体が、次なるものを知っている。人が感じるものは、次はどうであったらいいか、なんとなく知っている。

 

だから、この投げ飛ばしたい感じも、どうであったらいいのかをどこかで知っている。

それから、大きな雲みたいなもやもやも、どこに行ったらいいのかを知っている。

そういうふうなことを僕は信じています。こちらからどこかに行かせてあげなきゃいけない、とか、しなくても、それ自体がどこかに行きたいところを知ってるよ、きっと知ってるよ、といういうふうに思っていますね。

 

ーー「どこに行きたいか」というふうな問いかけは、今ここの体験から離れて、未来を扱っているような感じがするのですが

でもそれは、未来でもなくて、今、なんですよね。だからプカプカ浮いているのは、今だし。

どうあるべきか、っていうのは、どこかで人は知っている。そういう思いですね。

必ずしも時間軸に置かなくても、そんなふうに思えばいいと思います。

 

ーー出雲大社の禰宜さんに教えてもらったことは、「掃除することが私たちの最大の仕事です」ということ。フォーカシングは心の掃除という気がするのですが、どうなのでしょうか?

フォーカシングが目指しているところの一つは、「体験過程」とか「意味の創造」。僕は、このエイジアン・フォーカシングはもう一つの軸があって、「スペース」が大事だと思うんです。「空(くう)」というか、「無我」の状態であるとか。その部分がとても重要な部分かなと思うんです。

何を取り上げようかと考えてるのと、それがやってくるのを待つのとでは、すごく感じが違う。

やってくるのを待てるようになると、それだけで違うんですよね。そこが従来のフォーカシングに足している側面。

それと、「掃除をする」という、まあ、作務ですよね、の関係…あるといえばあるし…。掃除をしているときに、何も考えない、とか。というようなスペースがそこにあるんだろうとは思います。

(デモセッションを受けた方の感想に対して)
基本的に瞑想はひとりでする。喋りながらしない。それでやっぱりこれはフォーカシングだなと思うのは、喋りながらしていく、そして話しながら人との関係性の中で話しながら、僕も追体験しながら、進んでいく。どこへいくかわからないんですね、前もって。言葉にしていく中で、あるいはイメージにしていく中で、どんどん体験が変化していく、という、そういうところが実にフォーカシングだな、と。そういうところでは瞑想とは違う。でも瞑想に似ている。

ーー先ほどのデモセッションの中で「攻撃性」という言葉が出てきましたが、そこに焦点は当てませんでしたが、場合によってはその「攻撃性はどこに行きたがっているのですか」と先生から相手に聞くことはあるのでしょうか?
「攻撃性」という言葉は僕が言ったんですよね。「どこかに海に投げたい」と(フォーカサーが)言った時に。「じゃあ、攻撃性みたいな感じがあるんですね」と言ったら「ある」って言ってましたよね。そして、「その攻撃性はどこに行きたがっていますか」って僕は訊いたのではなかった? そして「海」ってことになったんじゃなかったかな?と思うんですが。(だから、取り上げます。)
「焦点を当てる」というか、「それはどこに行きたがっていますか?」と確か、聞いたように思う。…あんまり深入りはしなかった、だけど。そんなに深く入る必要もないと思った。それがどこかに行くんであれば、それでいいんじゃないか、と。
「攻撃性」について、省みるような、それについて振り返ってみるようなことになるんだったら、それはそれでいいと思いますけれど。
たとえば、ゲシュタルトみたいなのでは、時々、その攻撃性をもっと表現させたりしますよね。でも僕はそれはしないですよね。
やっぱりある程度スペースを置いて、というふうに思っています。だから、もっと表現しろとかあまり言いませんね。

ーー「気がかり」がどこにも行きたくない、居座りたい、というときにはどうしたらいいでしょうか? 「どこにも行きたくない」に気づいておけばいいですか? あえて置き場所を考えて置くのでしょうか?
さっきの(セッションは)そんなふうじゃなかったかな? どこにも行きたくなかったようなんですよ、溶岩が。だから、その溶岩は自分家の玄関でしょうか? みたいなことを僕が言ってましたね。そしたら、しばらくそれを考えて、「自分の中に横になっている」みたいなことを言っておられたので、まあそこでいいんじゃないか、と。
とにかく、でもどこかの場所を作っておく、ということが大事だと思います。

ーー内省慣れしていない、言葉にすることが苦手なクライエントさんの場合は、どのようにファシリテーションされますか?
そこには2つあります。まずは内省とか、反省(哲学的な意味で=悪いことをして後悔する反省、ではなくて、振り返ってみる、という意味の「反省」)に、慣れない。し慣れない、という場合と、言葉にするのが苦手という場合。やっぱり難しくなりますよね。それだけ時間が掛かる。

まずその内省する、反省する、ということが大事だということを伝えていく必要があります。それをしないと、なかなか自分を顧みることにならないので。
ある種の「心理教育」みたいなことが必要なのかもしれません。それが大事だよ、という。伝えないと、内省に慣れてなかったら心理療法できないと思う。

言葉にするのに慣れない、ということはよくあるので、時間をかけて一緒に言葉にしていく、というプロセスが大事だと思うんですよね。
子どもは情緒豊かだとよく言われますけれど、実際、卒論で子どもたちの会話を録音したものを分析した、ある学生がやっていたのですが、意外と気持ちの表現がないんですね。感情豊かだと言われているけど。「先生、先生、ウサギおってん」とか言って、嬉しかったとか、可愛かったとか、そういう表現ないんですよ。
そこで「うれしかったね」とか「よかったね」とか、そういうふうな言葉を付けていかないと、できごとだけしかしゃべらない。ということもある。

気持ちを言葉にしていくことの重要性をオリエンテーションした上で、一緒に、そこで何を感じたんやろう?とか、それ、どんな言葉で言ったらいいんだろう?とか。言葉でなかったら、色にしたら何色なんだろう?とか。絵に描いてみたらどうだろう?とか、いろんな表現を考えていく必要があると思います。

ーー雑念が自分の外から湧いてくる、という感覚、新鮮に感じました。一方で、浮かんでくる感情が、自分のものなのか外側のものなのか、判別が難しいようにも感じました。その線引きについて、どのようにお考えでしょうか?
内側か外側か、の線引きですかね? 外であり内である、みたいなものですよね。つまり、ある状況はある、その状況を思った時に溶岩みたいなものが出てくるんですよね。溶岩みたいに感じているのは自分だけど、状況は状況として外にある。そこで感じている溶岩は、内なるものであるんだけど、外なるものでもある、みたいな。
さっき僕そういうふうな質問にも答えたんだけど、内と外っていう分け方自体が、僕は怪しいと思っている。それは人間が勝手に作った概念で、実体として存在しないかもしれない。
ジェンドリン先生の授業で、ハイデガーの授業だったかな…先生がこんなことを僕らに聞いていた。君は体の中に居るのか、外に居るのか? ある同僚が、「体の中にいます」と答えたら、「君を解剖したら、正気が出てきて、臓器が出てきて、骨が出てくるけど、君はおらんじゃないか」と。「じゃあ、外に居ます」と言ったら、「いやいや、君と僕の間には空気しかないじゃないか。だから君は体の外にも内にも居ないのなら、いったいどこに居るんだ?」みたいな問いをしていたのを覚えていますが。

だから、内とか外とかいう分け方が、いかにも表面的で、実体としては内とも外ともいえないという、そういうものかなと思います。…あんまり線引きする必要がない。
でもただ、線引きはする必要はないんだけど、「線がないこと」が大事ですよね。つまり、全く外的な状況しか語らないのでは心理療法にならないし、それから全く自分の内側だけを語ってると、これも心理療法にならない。この状況を思ったときにこんな感じだという、外と内がセットになったものを取り上げるということになるかなと思います。

ーーモヤモヤ、溶岩等、何か出ていた時、「他の状況と関係ありますか?」と先生が応答していたと思うのですが、状況について尋ねたあと、別の展開が考えられるとすれば、どういったものがありますか?
ここは、今言ったことと全く同じ。その「感じられていること」は「状況の感じなんだ」ということを確かめていた。単なる自分の中の状況と関係ないイメージではなくて、具体的な状況が何かあるんだ、ということを確認していたということです。…だから「状況がない」となったら逆に困るんですね、僕としては。じゃあ何を思った時にその溶岩が現れたんですか?とか、そこの状況を探さないといけない、というもう一つ作業が加わってきます。
僕がある種のイメージを持っておきたいですよね、追体験しておきたい。でないと、言葉だけ言っていることになって、実際、相手が何を体験しているのか、わからないです。追体験を通してしか、わからない、と思っています。

「私は犬です」と自分を喩えたとして、「やあ、あなたは犬なんですね」と言うのはできるけど、イメージしようとすることはできなくて、「それは小型犬ですか?それともバーニーズシーズドッグのような大型犬ですか? それともピレネー犬ですか?」とか「よかったらどんな犬種か教えてください」と言って「ゴールデンリトリバーだ」と言われると「あ、じゃあ、こういう感じ」だというイメージが出てくる。やっと追体験できる、ようなところがあるので、そういう場合、確かに聞きますね。

ーーデモセッションを見た感想ですが、基本的にポジティブな体験につながるイメージ触れさせているように思ったのですが、いかがでしょうか? またそうであるならば、1番の意図は何でしょうか? 
よくそう言われるんですけれど、僕の中ではポジティブ・ネガティブという表現も人工的な感じがする。さっき言った「内と外」、みたいなもので。実際にはそういうものはない、みたいに思っていて、だから、ポジティブ・ネガティブという分け方を僕はしていないです。
ただ、何を感じているのか、その感じがどこに行きたがってるのか、それがどっかに行ったら呼吸に戻る。という繰り返しで。特にポジティブに、ネガティブにというのはありません。

人の体験というのは結構ポジティブなものなんだ、という、ポジティブというラベルを貼るなら、ね。溶岩みたいに溶岩の固まった岩みたいにデカいものを仲良く一緒に居れる、みたいにね、それをポジティブというならポジティブだし。
怒りみたいなものが海の上でポコポコ浮いて、それで許された感じになるんだったら、それはポジティブだといえばポジティブだけど、それは自然に起こっていることなので、ひょっとしたら人間の体験のあり方にラベルを貼るとしたら、ポジティブ、と言ってもいいかもしれないけれど。それはラベルを貼るならば、ということで。貼らなくてもいいし。

ーー中学生へのカウンセリングをしています。頭の中で二人の人が話していると言います。病院では鬱の薬が出ているようです。このような方にフォーカシングを使うのは危険でしょうか?思春期の子どもは妄想的なことを言うので心配です。
まずここで引っ掛かるのは「フォーカシングを使う」という表現。使うものじゃないんですよ。これはたとえば、抗うつ薬を使うとか、抗生剤を使うとか、そういう「もの」じゃないので、「使う」じゃないですよね。
じゃあ何をしようとしているのか、というと、この子を理解しようとしているんですよね。だから、ここで「フォーカシングを使う」と言ったのは。多分フォーカシングの教示をするとか、インストラクションをするとか、そういうことだろうと思うんですけど、そういうことをしたいんじゃない、僕だったらそういうことはしないとかですね。
もっと大事なのは、この子を理解しようとする姿勢です。
頭の中で二人の人が話をしているっていう、その事態を理解したい。その理解をするために、ひょっとしたらセラピストの方がフォーカシングする必要があるかもしれない。
聞いていて、私はいったい何を感じているのかとか、この子の何が私はわからないのかとか。
そういうところをフォーカシングする必要があるかもしれないけれど、理解しようとっていうことが一番のポイントで、そのためにちょっとフォーカシングのような聞き方をする場合があるかもしれないけれど、大事なのはフォーカシングするとかしないとか、使うとか使わないとかじゃなくて、その子を理解すること。そこだと思います。

多くの人は何かある種のスキルみたいに思っている。そうすると「使う」という表現が出るんでしょうけれど、一番コアなところは、「言葉になっていない体験を言葉にしていく」ということだから、それはこの中学生がすること。おそらくこの中学生はそれができないんです。そしてこの妄想のように人には思われるような表現をしているんだろうと思うんです。でもここの「二人の人が話している」っていうこの妄想なり思いは、何か彼が感じているフェルトセンスを言葉になってない何かを表そうとしてるんだろうと言う意味でこの子が本当に感じているフェルセンスに興味がありますね。

だからといって、フォーカシングのインストラクションをするということにはすぐにはならないと思いますけれど。その視点は私たちは持っておきたいなと思います。

ーーフォーカシング指向心理療法なら、「使う」という表現でもいいでしょうか?
僕は使ったことはないですね。「する」はいいんだけど、「使う」…何かちょっと僕はピンと来ないなあ。…と思いますねえ。やはり「使う」となるとツールみたいになりますものね。ツールというよりも人と人との関係のあり方、ですものねえ。
それでちょっと思い出したのは、『フォーカシング指向心理療法』。ここの最後のページ辺りに凄く面白いところがあるんですよね。…ちょっと訳しながらこの2つの文なんですが。
「フォーカシング指向心理療法はフォーカシングの教示の短い部分を含むセラピーではありません。むしろそれは、人との、人の内なるフォーカシングの深みから現れてくる、立ち現れてくるものが、セラピストの活動を定義、関係を定義し、そしてクライエントのプロセスを定義するものなのである。」という書き方をしているんですよね。
これ、すごく好きで。つまり、クライエントとの関係の在り方によってセラピストがやることも変わるし、プロセスの見立ても変わるし、それから関係それ自体も変わるし。そのような変容を起こさせるのがフォーカシング指向心理療法だ、という。
だから、これやっぱりすごく、フォーカシング指向心理療法っていうのは、関係の様式なんですよね。セラピーという関係の様式なので、ツールという感じでは、僕はないなあ、と思います。

ーーマニュアルがあるようなものを「使う」というのでしょうか?
ああ、そうですね。

ーー(頭の中で二人で話をしている、中学生のカウンセリング 追加質問)では二人の人の会話を聞いていくのはどうなのでしょうか?
やっぱりちょっと聞いてみたいですよね。そしてそれが奇妙な内容すぎれば、僕だったらちょっと心配になる。でも、なるほどと思うような会話であるならば、それを聞きたいと思うし、それからこの中学生にとっても、自分にとっても奇妙な体験に、誰かが関心を持ってくれて、誰かが自分を理解しようとしてくれていると思えると、それは随分大事なことになるんじゃないかなと思います。


この一連の質疑応答を聞いていて、私は「フォーカシングはありようを指向するもの」という理解をしました。
チャットにそう書き込むと、池見先生が「いいですね」と返してくださいました。
そう。「人と人との関係のありよう」を探ろうとするものだから、自分の存在の全てをそこに関わらせるもの。
だから、ツール扱いに拒絶反応が起こるんだ。
ツールは、道具として、自分自身のありようと切り離すことができるから。
ノウハウ、テクニック的にそれだけを切り離して移動。移設できるイメージ。自分自身の存在を賭けなくていいから安全で。
だけど、魂が震えるような体験、人とその時間・空間を共有するような「永遠の一瞬」にはつながらない。

画像は4月8日の朝、アンジーの散歩時に撮ったご近所の街路樹の桜。
7時少し前の、朝の光の粒々をうまく捉えることができました。

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