前回の続きです。
今日は、観我をやりたいと思います。
観我の説明は前にしたように思いますけれど、要は、座っているといろんな雑念がやって来ますよね。
ここも、もうエイジアンの考え方なんですよ。雑念が、「やって来る」。
「雑念」が主体ですね。「雑念」がやって来る。
「私」が考えている、じゃなくて、雑念がやって来る。こちらは座って見てるだけ、ですよね。
座って見てると、雑念がやって来た。
前回は、やって来た雑念に、「どこに行きたいか?」と聞いて、行きたいところに行かせてあげた。
その間、その雑念に気づいてあげたり、ちょっとそれに触れると言うか…あ、こんなんがあったんやね、みたいな形でそれに気づいてあげて。
あそこに行きたいんよね、というようなことを気づいてあげて、どっかに行ってもらう。
そうやって雑念が簡単に、どっか行ってくれたらいいんだけど、なかなか行ってくれない時もあって、そして、そこを考えてみると、まずその、雑念と言われているものには、ある種の「我(が)」がある、どんなことにもあるなあって、気がつくんですよ。
今日、昼間に買い物をしていて、今日何食べようかなとスーパーで買い物してたら、パッと浮かんだのが唐揚げとビール。
いやいや、あかんあかん、今日は夜、これがあるから、唐揚げにビール飲んでる場合やないと思って。
でも、ビールを飲んで唐揚げを食いたがっている、という発想をしているのは、どんな私だろう?って考えてみると、するとそこに「我」があるんですよ。
で、ちょっとそれを楽しんでみて、イメージしてみると、結構はっきりイメージできるんですよね。
僕の、ビール飲みたがっている「我」は、デニムのオーバーオール着てて、割と太っていて、小太りで白髪の髭が生えていて、それでビール腹で、とても愉快な奴なんですよ。
そういう自分がいるなあって気がつく。
あ、やめた、ちょっとビールと唐揚げはダメ、今日は夜エイジアンをやるし、ちょっと違うもんにしよう、と。
その次に思いついたのは、ちらし寿司にしようかな。ちらし寿司とお茶、となるとまたね、全然違う「我」が現れてるわけ。
ちらし寿司とお茶っていうのは、もっと落ち着いた自分、もっとスリムな、あんまり脂っぽくない自分。がいるんですよね、そっちは。
でも結果的にどっちもダメで、その後、パッと通りかかった時、酢豚を見て買ってしまった。
それでちらし寿司でも唐揚げでもなかったんですけど。
そうやって、いろんな発想の背景には、ある種の私のイメージがあるなあ、ほとんど、どういうことにでも、あるなあと気がつくんですよ。
で、そこで、「観我」は、雑念がやってきて、その雑念が、すぐどっかに行くものはそれでいいんですけれど、ちょっと長居している雑念があったとしたら、それを考えてる私は、どんな私かな、と、そういうのを見ていきます。
その私のイメージっていうのをしてみます。
さっき僕が言ったみたいに、デニムのオーバーオールを着ている、と。そういう服装とか、姿とか。を思い浮かべてみます。
そして、ちょっとコンタクトします。何を伝えているのかなあ、とか。
で、どんなことを伝えてきていても、とりあえず、感謝します。
自分の発想というのを、人は非難することの方が多いんですよ。感謝するよりね。
今日夜仕事あるのに、ビール飲みたいとか、言うとる奴がおる、けしからん、みたいな。
そういうような感じで、自分を批判することの方が多いですよね。
だから、そういう慣れ親しんだ、批判することよりも、もっと感謝する方に行って、そう言えば、仲間と楽しくビール飲みながら唐揚げを食ったのってコロナ前からないかもしれん、そしてちょっと淋しい自分が出てきてるんかなあ、出て来てくれてありがとう、みたいな、ね。そんな感じで、自分を大事にする。
時々、その「我」はとても弱っていて、とても疲れていたり、起き上がれなかったり、そういう時に、僕は「慈悲の瞑想」の一行目の言葉を使います。
それは「私が健やかで幸せでありますように」。
その後、「私が苦しみから開放されますように」っていうのがあります。まあ、この二行、ありますね。
「私が健やかで幸せでありますように」。
この言葉もまた、力をすごく持っているんですね。
「健やかで幸せでありますように」って、割と年賀状に書きますよね。「皆さまのご多幸とご健康をお祈りします」。
皆さまの、ですけれど。
慈悲の瞑想の場合は、まず私から、ということで。「私が健やかで幸せでありますように」、と。
この言葉だけで、ね、涙しちゃう人とか、すごく胸がいっぱいになる人とか、たくさんいます。
たくさんいるのは、おそらく、どっかでこれが本当だと知っているんです。
だけど、自分でそういったことを思ったことがない、意図的に思ったことがないんですね。
だから、皆さまのご健康とご多幸を祈ってるけど、そんな私は頑張ります、みたいな。
そんな私は苦しんでます、みたいな、ね。
皆さんの健康や幸せを祈って、私は頑張ります、みたいな精神が、なんかあるんですよね。
でも、どこかで、本当は私が健やかで幸せである、そこが大事なんだと、どこかで知っているわけ。
そこでここの一行がすごく効いてくるんですね。このコンパッションの一行が。
※コンパッション…人が生まれつき持つ、自分や相手を深く理解し、役に立ちたいという純粋な思い。 自分自身や相手と、共にいる力
二行目の「苦しみから開放されますように」ってのは、ちょっとあまりにも仏教すぎる、ちょっと苦しみの「苦」とか出てきて、あまりにも仏教過ぎるから、最近僕よく飛ばしますね。
オーストラリアでこういうワークショップやったら、結構、仏教瞑想に凝っている人が仰山参加してくれて、そして、オーストラリアでは「苦しみから解放されますように」っていう言葉があまりにも仏教色が強すぎて、「May I be free from suffering」とか、「suffering」という言葉があまりにも強すぎて、向こうでは、少し変えているんですよ。
「私が平和でありますように」というふうに変えています。
「苦しみから解放されますように」じゃなくて、「私が平和でありますように」。「May I be at peace」っていうふうに、変えているんですよ。
私が健やかで幸せでありますように、私が平和でありますように、という言葉に変えています。
それに慣れちゃうと、今度、苦しみから開放されますように、というと、なんかすごい仏教っぽいなあと思って。
だから僕は二行目は使わない、使うとしたら英語風に「私が平和でありますように」。
これは「慈悲の瞑想」という瞑想からきていて、まず最初に瞑想でやることは、「私が健やかで幸せでありますように」。「私が苦しみから解放されますように」。
これなんですけど。
自分の前に窓があって、ちょうど人の顔が入るぐらいの窓があって、その窓に自分の顔が映っているって自分の顔がそこにある、その顔に言う。
次は知らない人が入ってくるんです。
知らない人っていうのは面白いんですよね。
たとえば、ね、僕がよくやってたのは、コンビニの定員さん。
よく顔見かけるから、顔は知ってる。顔は知ってるんだけど、名前も知らないし、話したこともない。
でも顔は知ってる。そういうような「知らない」人を入れて、その人が健やかで幸せでありますように。
面白いですよね。これやってるとね、違いますよ。これ、瞑想の話なんだけど。
何年か前、上海で泊まってたホテルには、朝食がなくて、それで、朝ごはんは悪いけど、ホテルの前にあるガソリンスタンド行って、ガソリンスタンドに売店あるから、好きなもの買って、みたいな言われて。
中国語、全然わからないけど、そのガソリンスタンド行って、ほとんど日本の物ばっかり、午後の紅茶とか、そんなのがいっぱい置いてあって、山崎パンとかもあって。
そこで買うんだけど、そこに店員の、多分アルバイトしてる大学生ぐらいの、その子が不思議そうに僕の方を見てるんですよ。
僕、喋る時に、英語で喋るんだけど、なんか不思議そうに、「中国人みたいな顔してるけど、あの人英語喋るし、なんや?」みたいな感じで見てて。
僕瞑想で、その人を思い浮かべて、毎朝、その人が健やかで幸せでありますように、と思ってやっていると、次の朝会うと、なんとなく親しく感じるの。
なんとなく、こっちがニコッとしてるんでしょうね。
そうしたら、向こうもなんとなく、こう、ガードがないっていうか、なんか「あなたどっから来たの?」とか聞き出して、会話になったりして、またそれが面白いから、またその日の瞑想もまたその人を思い浮かべて。
で、やってたらね、知らない人なんだけど、すごく近くなったりする。というようなのが、あったり。
嫌いな人を入れてみたり、とか、いろんなやり方があるんですけど、その一行目だけ、僕らは使います。
「私が健やかで幸せでありますように」。
そうすると、自分のいろんな雑念の背景に、いろんな「我」がいます。
朝、瞑想しているときに、時々、僕の前に両サイドに並んでいる時があります。
いろんな「我」が並んでる、並んでくる。
いつも僕の時間を気にしている秘書役の「我」がいて、何時何分に出ていかないと出ていけない、とか、何時何分に着替えを始めないといけない、とか言ってくる奴がいて、それがここに座っている。
でまたこう、何かやってたら「今日何着ていこうかな」って考えてる自分がフッとそんな雑念が出てきて、あ、結構、服装気にする方なんやなあって思うんやけど。
そうすると、こうお洒落な自分、というものがいて、お洒落な自分というものがいるから、服装気にするんですよね。
ちょっとお洒落な自分、スカーフか何か巻いてるような自分がいて、それ、こっち側に座っている。
そんなふうにして、また雑念が出てきたら、その背景にどんな「我」がおるんやろうって、こう、並べて行くと面白いですよね。
スカーフ巻いてるお洒落なのがいたり、軍人みたいなのがいたり、秘書みたいなのがいたり、作家みたいなのがいたり、いろんな「我」が自分の周りにいます。
一度、この話を藤田一照さんとしたら、「それこそ無我なんですよ」みたいなことを言われて。
無我になるなんて、不可能だけど、いろんな「我」があるから、でもいろんな「我」があるけど、私はそのどれでもない、私はそれらの「我」を見ている私なんだ、と。
そう思うのが、無我なんですよ、と一照さんが言ってて、ああ、そうだなあ、と。
観我っていうけど、実は無我のワークなんだよな、そんなふうにも思います。
この後、質問受付となり、その応答が続くんだけど。
4000字を超えたので、ここで一旦、切ります。
「そんなふうにして、また雑念が出てきたら、その背景にどんな『我』がおるんやろうってこう、並べて行くと面白い」って、そんなふうに考えてみたことなかったので、その発想にびっくりした。
…そうか。いろんな私がいていいんだな。
そして、それぞれを見ている「私」がいるのか…。
画像は、今朝5時15分に、寝室の内窓を開けて撮った朝日。
向こうの部屋の内窓も見えています。
向こうに見える内窓の内側にはいろんな「私」がいて、窓が開いて顔を覗かせてくれた時には、私はそれに「手を振る」だけでいいのかもしれない。