折々のことば。2022年2月10日の言葉。
土に還(かえ)すということ。
そこに、命の始まりと最後を見届けるような安心と無常とを感じる。 高橋久美子
鷲田清一の解説。
文筆家は、東京のような大都会でも、庭があれば、なくてもコンポストがあれば、生ゴミも微生物に分解させて堆肥(たいひ)にできると言う。
ゴミではなく資源なのだ。
死んでも何一つ無駄とも無意味ともされずに引き取られるという安堵(あんど)と、形あるものがやがて崩れ、存在としては消えるという儚(はかな)さ、潔さ。
そこにほこほことした命の温(ぬく)みを感じると。
『その農地、私が買います』から。
「土に還す」。一言でそんなふうに言うけれど。
そもそもは微生物から進化して野菜やら何やら、になって、そしてまた微生物に分解してもらって、土、となる。
人間も。今頃は焼いて骨にして、その骨が朽ちて砂状になって、土となるのを待つ。
…まあ、昨今は「お骨拾い」をするために、温度を下げて焼く、と聞くけれど。
高温で焼くと、本来は骨としての形が残らない、らしい。
物質としての肉体は、そうやって土に還る。
そして、命を育む土、となる。
魂は?
いろんなことを思い、悩み、願い、祈った、魂の記憶は、どこにいくのだろう?
そんな風に思ったからこそ、魂の在処(ありか)を問う、教えが生まれ、宗教が生まれ、したのだと思う。
いろんなことを思い、悩み、願い、祈った、その「想い」を受け止めてくれる存在が欲しかったのだろう、と思う。
本当のところ、なんてわからない。
だって、今世(こんせ、=現世)でまだ、死んでいないから。
前世で死を迎えていても、記憶が失われているから。
まあ、だからこそ、生き直しができるのだろうけれど。
それでも、「葛原昌子」としての人生は一度きりで。
それももう人生の「折り返し地点」は、とうに過ぎて。
これまで生きてきた半分も、この先も生きるかどうか定かでない、位置にいて。
で、先月から「内観療法」のカウンセリングを受け始めて。
自分の人生の時期を12に分けて、母との関係を見つめ直す、ことを始めている。
「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」。この3つの視点で、記憶に残る、過去の出来事を見つめ直す。
これまで、人に話したこともないことが、ひょいと出てくる。
別に、隠していたわけではなく、私にとっては当たり前すぎて、人に話すまでもなかったこと。
でも改めて口にすると、それが、私にとって、とても大事な意味を持っていた、ことに気づいたりする。
前回は、小学校を終える時期までだったから。
このペースでいくと、月1回で半年ぐらい掛かる、かな。
閑話休題。
「死んでも何一つ無駄とも無意味ともされずに引き取られるという安堵と、形あるものがやがて崩れ、存在としては消えるという儚さ、潔さ。」。
そうね。形あるものは、いずれその形を失う。
けれど、「想い」は残るのではないか?
一昨日の土曜日、「沙羅Saraの6月のお茶会」をした時にお招きした、ピアニストの久保比呂誌さんがオリジナル曲「風の行方」を弾いてくださって。
なんでも、阪神・淡路震災の時に生まれた曲だそうで。
聴いていて。何か、廃墟のような場所に吹く風を感じて。それどそのうち、その廃墟が、緑に変わっていくのを感じた。
それは、作曲者の久保さんの「祈り」のようなもの、であった、かもしれない。
それは、時間を経ても、変わらず「そこ」、その曲の中にあるもので。
私たちは、感じる心を持っている限り、その人の「想い」を、メロディーから、絵から、書から、立体物から、そして言葉から、感じることができる、と思う。
だから。肉体が滅びることを怖れなくてもいいんだと思う。
画像は、6月14日に矢田寺で撮った、紫陽花の小道。ちょっとトトロが出てきそうな雰囲気。
手前の紫陽花に焦点を合わせると、どうしても奥はぼやける。
でも、「今」に焦点を当てずにいることは生きている、ことではない。
こんなふうに、行き先がぼやけた道を私たちは生きていくんだと思う。
その先には何か恐ろしいものがあるわけではなく、きっと、穏やかな温かいものがある、ように私は思う。