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「さようなら」と小さく私は呟いた(2)

2025/11/06
「さようなら」と小さく私は呟いた(2)
今年の10月に起きたことの2つ目。
10月19日。私はルームを開いて10年になる、記念のLIVEイベントを開催した。
当初は、ピアニストを呼んで、ピアノコンサートをする、予定だった。
だけど、参加費を3,500円にしたことで、古い元クライエントさんである優子さんが、
「まこさん、それ、ホールを借りてする金額ですよ。3,500円で人は来ません。」と言った。

私はびっくりした。イベントをするのに、3,500円が高額だという意識はなかった。「今頃、無料の演奏会もありますからね。」

…そうか。ピアノコンサートでは人を集められないのか。

では、どうすれば、いい?

もう、これは。私を全面に出して、私と過ごす90分なりに価値を感じてくれる人を集めるしかない、そう思った。


私の64年をどんなふうに語ろう?


10年ホームページでお世話になっている、リウムスマイル!の穂口さんとの30分無料相談が、大きなヒントとなった。

14までは、私、ピアノで自分の感情を表現していた。

14ぐらいから、ピアノの先生と解釈が合わなくなって。ピアノを弾くのが苦しくなった。

それとともに。私は書くことへと移行していったのだった。

17の歳には、私は全くピアノを弾かなくなり、書くことのみになった。


言葉をつらつら書き連ねていた、14、15、16、17、18、19、20、21、22。

毎日書くこと3、4ページから5.6ページ。
大学ノートは20冊を超えた。

22の歳には、自分の書いたものが醜い、と思ってしまった。

誰にも向かわない言葉。誰とも繋がっていかない言葉。

蛇がトグロを巻くように。私の言葉は、どこへも向かわないで、ただ、自分の気持ちを吐露しているだけのもので。

そんな「醜い」言葉を、生み出すことに疲れてしまった。


私は。一旦、書くことをやめようと思った。

もし、書くとすれば。誰かと繋がっていく、誰かに語りかける言葉を、と思った。


…そこまで語った私に。穂口さんは「そのところが聞きたい」と言ってくれた。

タイトルも「弾くこと、書くこと、対話すること」でいいやん、と言われた。

そうか、と思った。副題をつけて「弾くこと、書くこと、対話すること〜ピアノとともに振り返る、私の64年〜」とした。


そうして、4歳から17歳まで、私がレッスンで弾いた曲を弾いてもらう。

まあ、それだけではピアニストに悪いから、「私が弾いたことがない曲」も4曲ほど。


それから、23歳の時に、絶望的な気持ちで、教員採用試験を受けに行った朝に生まれた詩。

詩の投稿雑誌「詩芸術」で、1984年7月、「今月のすいせん詩」に入ったものを紹介した。(これは、「ほっと一息 私の時間」という20話のプログラムの20話目のYouTube動画。)


さらには。26歳。初めての高2担任で、教室の後ろの小黒板に書きつけた「雨の夜には」に岩元くんが曲をつけてくれたもの。

38年ぶりにデジタルの音源を持ってきてくれたので、私の撮った写真とフリー素材の写真で、YouTube動画にしたものを紹介した。


それから。27歳の時、初めての高3の担任で、卒業式あとの最後のホームルームで歌った「時代」を歌った。(その時の卒業生里美ちゃんが目の前に座っていたから、思わず、覚えてる?って聞いたら、うなづいてた。)


あとは、広島県立安古市高校の離退任式で、アカペラで歌った「エーデルワイス」。38歳だった。

広島県立湯来南高校の卒業式予行日に、年休をとって歌いに行った「Piece Of My Wish」。47歳。

どれもこれも。その時のいろんな思いが蘇ってきて、それをそのまま口にした。

しんみりと、皆さん聞いてくれたようで。私はその場の雰囲気が居心地良かった。


ボイストレーニングを十分するつもりでいたけど、ちょっとスクールの人に不幸ごとがあり、連絡を取れずじまいで、当日を迎えてしまった。

だから(というのは言い訳だけど)、声があまりよく出ていなかった。

開演は午後からだから、午前中にでも声出ししておけば良かったのに、ちゃんとできなかった。

これは、確かに反省点だけど、でも、全部が終わった時に4歳から17歳、ピアノを習った先生から「あんな声の出し方してたら、声が潰れるよ」との言葉に、ちょっと固まってしまった。


ピアノの先生。4歳で習い始めた時には、20歳の音大の学生でいらした。

多分、40年ぶりぐらいの再会で。

お会いする前に、電話で、気づいたら4時間半も話していた。私は50年ぶりにやっと「悲しい曲をもっと悲しく弾くように言われて、私はピアノが弾けなくなりました。」と言えて。もうそれだけでよかったのかもしれない。


私の高校の同級生2人に、先生が私のことを「習いにきてた子の中で一番弾けてた」と言われていたのにも驚いた。…そんなふうに、一度も褒めてもらったこと、なかったよ。


それにしても。確かに、歌がもう少し、人に聞かせられるレベルであった方が良かった、とは思うけど。

それでも、今回のコンサートのテーマは、そこではなかった、と思うのだけど。


あ、だからだね。私、奈良に帰って10年になるけど。その間、一度も会いに行こうと思わなかった。なぜだか、必死に私の行方を辿ってくれて、今年の年賀状に、「やっと見つけました!」とまで書いてきてくれた先生に。

50年前も、私のことがわからなかった、けれど。今も、私のこと、わからないんだね、先生。と思ってしまった。


多分、もう連絡を取らない、と思う。

「さようなら。先生」と小さく私は呟いた。


そんなことがあってのある日。私は母のマンションに置きっぱなしにしている本の整理をした。残しておくことにした本の中に『生きるとは自分の物語をつくること』という文庫本があった。『博士の愛した数式』という小説を書いた小川洋子と河合隼雄の対談だった。

何か。惹きつけられるものがあって。まだ整理の途中だというのに、私はその本を読み始めた。

そこには非常に示唆的な対話があった。


小川 (『大人の友情』(朝日文庫)を取り上げて)

   先生のご本の中で印象深かったことがあるんです。京都の国立博物館の文化財を修繕する係の方が、例えば布の修理をする時に、後から新しい布を足す場合、その新しい布が古い布より強いと、却って傷つけることになる。修繕するものとされるものの力関係に差があるといけないとおっしゃっているんです。

河合 そうです。それは非常に大事なことで、大体人を助けに行く人はね、強い人が多いんです。

小川 使命感に燃えてね。

河合 そうするとね、助けられる方はたまったもんじゃないんです。そういう時にスッと相手と同じ力になるというのは、やっぱり専門的に訓練されないと無理ですね。我々のような仕事は、どんな人が来られても、その人と同じ強さでこっちも座ってなきゃいかんわけですよ。年寄りの方もいれば子供もいる。いろんな人が来られますからね。

小川 そのお話を読んで、私、博士があんなふうにいい先生である理由というのもそこなんだと思ったんです。つまりルート君の持っているか弱さ、淋しさにスーッと近づいていける。そういう才能を持っている。

河合 そうですね。しかし、そういう面白い人物像をよく考えつかれましたね。数の面白さもよく書かれていますが、ああいう人物像が出てきたというのは素晴らしいと思いました。(pp.15-17)


同じ強さで存在すること。

それは、「教えるー教えられる」場合も。「ファシリテーターをするーワークを受ける」場合も。

同じなんだと思う。


いつぞや、「ゆめのたね」のゲストとして来てくれた教え子の野際くんが、言っていた。

整体をする時の施術の強さについて、患者さんの身体が押し返してくるのと同じ強さで指圧を加えるのだと。

そうすると、「揉み返し」などという現象は起こらないのだと。

何気なく、に見えている施術が、実は繊細に身体が反応する圧を感じ取って、さらにはその圧でもって施術を加えていく営みである、ことを知り、私は驚嘆していた。

ああ、それは。施術における問題だけではなく、人が人と関わるときの極意なんだ、と気づいた。

何か。いろんなことが一挙に整理できた瞬間だった。


「さようなら」は、それ以上関わりを持っても何も生まれないと判断してのこと。

たくさんの「さようなら」は、でも嘆くことではない。

私たちの手は二本しかないのだから。両手いっぱいにつかんでいるものがあれば、もうそれ以上を手にすることはできない。

新しい何かをつかむために、「さようなら」があるのだと私は思う。


画像は、今朝の日の出前の空。
雲がない方が朝日はくっきりするけど、私はこんなふうなブルーグレイの雲色も好き。

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