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Lazy AZARASHIとの対話〜池見陽先生の「フォーカシングと体験過程モデル」・2024/3/16・甲子園カウンセリング研究所〜

2024/03/18
Lazy AZARASHIとの対話〜池見陽先生の「フォーカシングと体験過程モデル」・2024/3/16・甲子園カウンセリング研究所〜
2024年3月16日(土)。
甲子園カウンセリング研究所でのフォーカシングのコースも最終回を迎え。
13時30分。池見先生の「フォーカシングと体験過程モデル」の講義が始まった。

久しぶりにお会いした先生は。
なんだか少しお疲れ気味のようで。
それが何となくお身体全体から滲み出ているようで。
ちょっと心配になった。

昨今は、いろんな人が、え?と思うようなお歳で容体急変し。
突然亡くなられることも多くて。

なんで、そんなにお忙しいのですか? と思ったら。
原稿の締切が迫っている、だとか、本の校正もあったり、だとか。
…なんだか、生き急いでいるようにも思えて。
本当に。休んでくださいね、と思った。

だって。
先生の見せてくださるものは、霧が掛かってもやっとしていたのが、いきなり地平を見渡せる、ようで。
まだ、これから、それがどれほど遠くまで見渡せるものであるのか、知りたいんです、私。


その日の講座は、3部構成で用意されていて。

Part1:フォーカシングαとフォーカシングβ
Part2:ワーク(デモセッション)
Part3:「体験過程モデル」

Part1では「フォーカシングという語の2つの意味」ということで、2023年9月に「クライエントがしている内的行為としてのフォーカシング」として「フォーカシングα」、「セラピストが教えるフォーカシングの方法としてのフォーカシング」として「フォーカシングβ」として命名された、ことの説明があって。
うーん。。なるほど、ね。
「フォーカシングA」から「フォーカシングα」、「フォーカシングB」から「フォーカシングβ」への改名は、わずか1週間後、だったそうな。
哲学的な意味合いを込めて、α、βの方が良いと思って、とのこと。

そのお話の中で。
ロジャーズが「人を変えるのは技術ではない。人を変えるのは人間関係だ」と言った、という話の流れで、
「テクニック(方法)としてのフォーカシングは『そうでなければならない』となったときに硬直する。なぜなら、新しい方法を作れなくなるから」。
だからこそ、「フォーカシングβ」として、これまで「アニクロ」やら「エイジアン・フォーカシング」やらを作ってきたことに触れられた。

はい。そうよね。
私、そこのところは、理解していました。
2016年に初めて先生にお会いして、
「『carried foward was』。人が自分の体験を新しく言い表したとき、その新しい局面が過去に遡及(そきゅう)適応され、違う過去が立ち上がってくる、その、過去を変えるような気づき=推進された“だった”」
を、やや興奮気味に話されたときから、「青空フォーカシング」「観我フォーカシング」「漢字フォーカシング」、つい最近の「エイジアン・フォーカシング」の講座に至るまで。
日本人としての、アジア人としてのそれ独自のフォーカシングがあってもいいのでないか、とその文化に根ざしたフォーカシングを提起されてきたこと。

その度に、ほお、と思いながら。
その「新しい」方法に取り組みながら、それでどんな視界が開けるのか、を味わってきました。

だから。
私にとっては、そう目新しいことでもなくて。
「そうよね。」という流れだった。

そして。その流れのままに、「デモセッション」となって。

なんとなく。その日「甲子園カウンセリング研究所」に足を踏み入れたとき、セッションを受ける、ような気がした、のよね。
いきなりデモセッション、ではなく、何がやりたいかを参加者に対して問われたとき、私は「アニクロ」に手を挙げた。
それでも、「デモセッション」を希望する人の方が多くて、そういう流れになって。
さらにはセッション希望者として3名が手を挙げて。ジャンケンして。
で、私、だった。

なにか、自然な流れのように、池見先生の横に座り。
先生から「リスナー」「フォーカサー」の固定した役割を外して始めることを言われ。
あ、それもいいな、と思ったことだった。

ゆっくりと息を吐き。ゆっくりと息を吸う。

なんというか。
「私は対話がしたかった」という「雑念」がやってきた。
…そう!
私は、自分の言葉で語り、相手からもその人の言葉で語ってくれる、「対話」がしたかった。
そう気づくと。その次には、この頃の私に訪れた「幸運」について、「雑念」がやってきた。

7年前には。28年ぶりに高校1年の担任をした人から連絡が来て。
昨年には、34年ぶりに高校1年時に私に古典を習った、という人が来て。
「ありがたいな」という思いと。少しばかり「申し訳ないな」という思いが入り混じり。

そんな話をしていると。
先生の方は「怠惰なアザラシ」の話を始めて。

なんでも。最近忙しすぎて。ナマケモノになりたい、そうな。
「Lazy アザラシ」、と言われた。

忙しすぎて、消耗する。…いや、消耗する、わけではないな。
大変だけど、本の原稿も。しかしその後には豊かなものがある、って言われたっけ?

まあ、そうよね。
言葉で組み立てる作業は。とても大変だけど、しかし、出来上がった時には、開ける視界がある。
遠くまで。地平を見渡す、ことができる。

私も、僅かながらそれがわかるから。こうやってコラムにまとめようとする。
…何が見たいのだろう?
たぶん。もう一段高いところから、開ける世界。
これまで見たことのない、景色。
俯瞰できる視座。

打ちながら。言葉になって初めて、ほお、こんなことを考えていたのか!という気づきもあって。
それは、打つことでしか現れてこない(お!勝手に「現」の字で変換したよ! よくわかったね!)「現実」で。


「Lazy アザラシ」は、パソコンの前で突っ伏しているようで。
先生がそれに「よくやってるよ」という労わりの声を掛けると。
「Lazy アザラシ」先生は、突っ伏しながら、ニヤッとして。

それで。何か、疲れが少し取れたようで。


「私は私を諦めないでいてよかった」。
次に出てきた私の「雑念」は。こんな言葉で。

そう。何度も「もう辞めたい。」と思っていて。勤めて3年ぐらい、毎日。
人前で話すのも苦手で。なのに、なんで教員なんてやっているのか。…そんな日々で。

仕方なく。どうしようもなく。
なのに。そんな日々の後に出会った人たちが。28年も34年も経って、私を覚えていて。
会いたい、と思ってくれる。
ありがたい、以外のなにものでもない。
同時に。こんな私だったのに、という申し訳なさと。

それでも。「私は私を諦めないでいてよかった。」
その言葉が先生の心にも響いたようで。

ゆったりと。時間が流れていきました。

それぞれがそれぞれのことを語り。
でも、何か噛み合っているような気もする時間、でした。

見ていた人から悪意なく、「どこがフォーカシング?」という質問も出たけど。
私はフォーカシングだった、と思う、と答えた。
よくわからないけれど、不思議な、池見先生との時間。
自分の雑念と、それから先生の「Lazy アザラシ」と付き合う時間。
…ん? 先生の「Lazy アザラシ」?
いや、先生=「Lazy アザラシ」? 
いやいや。「Lazy アザラシ」は先生の一部で。
いやしかし。その時の先生は「Lazy アザラシ」そのものだった?
いや違う。先生は「Lazy アザラシ」に声掛けしたんだから!

まあ、「Lazy アザラシ」との対話は、先生がした、んだよね?
…私は? 私は誰と対話した?
まあ、少なくとも私は私と。
「Lazy アザラシ」には私は傍観者で。

でも少なくとも、「傍観者」がいる、ということに意味があるのかもしれない。

となると。
私は先生の「Lazy アザラシ」との対話を促進した?

んー。なるほど、ね。
そういう意味合いはあるのかもしれない。

私も「私は私を諦めないでいてよかった」という言葉は。
その時そう言うまで、私の中になかった言葉だから。

そうなると。
平行線のようでいて、ちゃんと絡み合っていた、のかもしれない。

先生。不思議な時間をありがとうございました。

画像は、電車に乗る前に生駒駅で撮った、食堂街の入り口の花壇。
その日は春の陽気で。光が眩しかったです。


<追記>

あ、しまった。Part3について触れるのを忘れた! と思って。付け足します。

Part3は「体験過程モデルの命題」として5つ挙げられていて。
今回、お、先生、踏み込まれたね!と思ったのは、「命題1」と「命題2」。

【命題1】
人には無意識という意識があるわけではない。まだ言葉になっていない未知の体験を前に、人はその意味を理解しようとする。カウンセリングでは、無意識を意識化するのではなく、クライエントとカウンセラーは体験を丁寧に言葉にしていき意味を見出していく作業に取り組んでいる。

【命題2】
人はメカニズムではない。人には意識があるから、人は自らの生を振り返って観ることができる。そこで立ち現れる体験は過去の因果を反映しているのではなく、更なる生の一歩をインプライ(implying)(指し示)しているのである。


…そうね。訳の分からない「無意識」を組み敷こうとするよりは。よっぽど生産的だと思う。
何か形として出来上がった「自己」を追い求めようとすることも、意味がない。
自己は日々の体験において、生成されていく、ものなのだろう。
かつて20代の私が、もう辞めたいと思いながら、辞めずに続けたのは、そのまま辞めたら、もう何の手がかりも得られない、ことが分かっていたから、きっと。
…何の手がかり、だろう?
うん。たぶん。私が何者であるか、を知る手がかり。

私が何者であるか、は、今になって。
苦しみながら続けてきたこと、が「私」を形作っている。

私は何がしたかったのか、も今になって。
「対話がしたかった」。私は私の言葉で。相手もその人の言葉で。
それで、互いの視座の違いが明らかになったとしても。それで見えてくる新しい世界が見たかった。

そして今。そういう「対話」ができる人が私の周りにいること。
が、この上なく嬉しい。

ああ、そうね。
光が差す方向に。向いていたかったんだ! 私。
生駒駅前のアネモネ(?)のように。

先生。次にお会いできるのはいつでしょうか?
その時には。私、もう少しまた、見えているものがあるでしょうか?
そんなことを思いました。

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