折々のことば。2025年1月14日の清水幾太郎の言葉。
芸というのは、見知らぬ人間の心の中へスルリと入って行く技術のことです。 清水幾太郎
鷲田清一の解説。
落語には長い前置きもくどくどしい弁解もない。
無駄な言葉はどこにもない、と社会学者は言う。
落語家は人を楽しませるのが仕事、客を退屈させれば「生きて行かれなくなる」。
だからこそ芸を磨かないといけない。
文章の修行をしている者も「判(わか)らない方が無智(むち)で無教養」と芸術家ぶらないで、芸人の技術から学ぶべし。
「肝腎(かんじん)なこと」だけを書けと。
『日本語の技術』から。
清水幾太郎の言葉を引用した、鷲田清一の言葉を打っていて。
「わかる」に「判」の字を、「むち」の「ち」に「智」の字を、「かんじん」の「じん」に「心」でなく「腎」の字を持ってくるんだ! と驚く。
「分かる」時の「わかり方」は、物事を区分けしていくようなわかり方。
「判かる」時の「わかり方」は、物事のありようを判別していくようなわかり方。
「知」ではなく「智」を用いた時には、「知恵」ではなく「智慧」。
つまりは仏教用語で「物事の道理を判断し処理する能力や、様々な気づき」を指す。
…まあ、「知る」ではなく、「智(さと)る=悟る」わけで。
「肝腎要(かんじんかなめ)」という言葉があるように。(「肝腎要」はものごとのいちばん大切な部分を指す言葉。)
肝臓の肝、腎臓の腎が使われていて、それらは人体にとって欠くことのできないものであるところから、「最も重要なこと」を意味する。
(まあ、常用的(=日常的)には「肝心」と書くけれど。)
清水幾太郎の言葉遣いは。こんなふうなこだわりが随所に露見する、ものだった、のね。
言葉にはたましいが宿る、から。
音の響きも大事だけど、漢字の持つ力(=エネルギー)を考えた時には。
どのような「漢字」を用いるのか、は大きな問題だ。
…まずは、そんなことを考えた。
それにしても。「楽しく」ないと、人の心にスルリと入っていけないわけね。
まあ、それはそうだ。
顔をしかめて聞く話に。ろくなものはない。
「芸」か。
…確かに。「芸人」でないといけない、わね。
まあ、そういえば。「読むカウンセリング」で、こんなコラムを書いたこともあったっけ。
「女優の私」、始めませんか?
これはまさしく「芸人」をめざせ! ってことよね?
うん。まあ。楽しんだもの勝ちだから。
ふふふ。まあ、こんなのも。いいんじゃない?
(今日は1,000字)
画像は、スルリと私の心に入ってきた「カマンベールチーズ鍋」。
昨日美容室に行って、その時にスタイリストさんが持ってきてくれた『レタスクラブ』を見ていて、
作ってみたくなって、思わず写メしました。