折々のことば。2025年2月3日の石内都の言葉。
時間に抱き締められているからだは、時を宿すだけで分泌することなく亡(ほろ)び去る 石内都
鷲田清一の解説。
時間は誰の存在をも抗(あらが)い難いかたちで侵蝕(しんしょく)する。
それは「やさしく」かつ「残酷」だと写真家は語る。
人は死んで体を失い、時間に縛られることもなくなる。
そんな死と自由の結びつきを写真は白い紙の上に定着させる。
日々スマホで撮りまくる現代人は、背後にそうした冷やりとする関係があろうとは想像だにしていないかもしれない。
随想・写真集『モノクローム』から。
侵蝕って。Goo辞書には。「侵食」「浸食」「浸蝕」と同じと出ているけど。
「侵(おか)す」。「侵入」する、という言葉があるように、他の領域、他の領土とするような場所に押し入ること。
「蝕(むしば)む」とは、少しずつ、端から食い込むこと。
まあ、じわじわと。じわじわと食い込んで、それで、その「他」のものが変質してしまうような、変化をもらたす、のね。
まあそうね。時間が経つと。つるつるだった肌も。シワが出て、それから大きなシミもできて。
それから体全体、重力に逆らえずに、ズンと下がってきて。
若い頃の肌の状態を良しとするならば。耐え難い変化、だろう。
だけど。若い頃、空疎な笑いしかできなかった私には。
シワがあって、シミがある顔でも。穏やかな笑い皺がある今の方がいい、と思う。
それは、なんだろう? 何に焦点を当てるか、なんだろうけれど。
20代の頃の肌を良しとするならば。そのあとはどんどん下り坂なだけで。
「その後の自分」は、かつての「栄光」を取り戻す、だけに終始することになって。
そうすると。「今の自分」は否定される。
アンチエイジング、という言葉に。「ん?」となったのは、そういう理由ね。
年齢に抗うことは、「今の自分」を否定する、ことにつながりやすいから。
そういうことで言うと。
写真は、その時その時の「時間を止める」。
流れていく時間の、一瞬を「切り取る」ものだから。
絵が描けない私は、写真で一瞬を切り取る、ことをし始めた。24歳の頃。
最初に買った一眼レフは「Nikon FE2」だった。35〜70のズームレンズを一緒に買って。
確か、15、6万して、私の1ヶ月の給料を軽く超えていた。まあ、初任給11万4千円、だったから。
最初、目で見た通りに撮れないことに苛立った。
何か、焦点がボケて。特に一帯の風景を撮ったときにはヒドかった。
後から見て、「何が撮りたかったの?」ということになった。
それで。花をクローズアップで撮り始めた。…まあ、これだと。少なくとも何を撮りたかったかはわかる。
クローズアップも。バックに映り込む色で、雰囲気が変わるから。今度は一緒に何が映り込む? を気にするようになった。
そうやって。少しずつ少しずつ。「時」を止めるようになった。
子どもの頃の私は、写真が嫌いだった。
写真を見ると、もうこの時間は過ぎてしまって、取り戻せないんだ、と感じることが辛かった。
だから、写真に撮られることも好きではなかった。
2歳か3歳の頃の。着物を着せられて、頭にはぼんぼりを乗せて。
口をへの字にして、草履を履いた片足を横に曲げて、立っている私がいる。
…まあ、それが。常に出てくる私の「インナーチャイルド」だけど。
その頃からもう写真は嫌いだった。写真を撮るというので、無理やり立たされて、だから「口はへの字」なんだけど。
この「イヤなものはイヤ」という「まーちゃん」と。
私はずっと話をしてきた。「…そうだよねえ。そんなこと言われても。イヤだよねえ」とか。
「なんで、こんなこと、しないといけないのよね!」とか。
本音で。語り合ってきた。
私の「気づきノート」方式カウンセリング(R)の、語り合うべき相手は「イヤなものはイヤ」と言える自分。
それは、私が私を救ってきた方法で。
長い人生の中でそれを忘れていた時期は、人に依存したりした。その時には、私は私と語り合っていなかった。
書くことは、自分の醜さを曝け出すから。書くことをやめたりもした。
そうやって、救いを外に求めた時には、「頼れる人」を必要とした。
…それは「依存関係」を受け入れる、ことを意味した。
その「依存関係」から抜け出るのに、20年近くの歳月を要してしまった。
そんな苦い経験から。
私は「頼れる人」を外に作らない、「気づきノート」を勧める。
それは、あなたがあなたを救う方法だから、と。
あなたの辛さは。他の誰がわかってくれなくとも。あなたは分かるから、と。
まあ、それでも。自分が自分以外の誰かに依存していて、それが自分にとってよくないことが分かっていてもやめられない、時でも。
いつか私は、時期がくれば、離れる、と思っていた。そうできる自分がいる、と信じていた。
だから、宇多田ヒカルの「Coloers」の最後の言葉にシビレた。
「今の私は、あなたの知らない色」。
言葉と。インナーチャイルドと。
それが、私の「気づきノート」の両輪。
「分泌する」とは、流れ出て他に影響を与える、という意味だろうか?
写真は。確かに「一瞬」を閉じ込めたもので、閉じ込められた「一瞬」は、そういう意味で「死んだ」状態だ。
でも! 閉じ込められた「一瞬」が「永遠」につながる、ことがあるのも本当だ。
それは一瞬の生の輝き。その時、生きていた、という記憶。
そういった一瞬の輝きがいくつかあって。それで人生を彩ることができるならば。
それも「永遠」への道と言えるような気がする。(今日は2,400字)
画像は2016年4月に馬見丘陵公園で撮った写真。
チューリップ、可愛い。早く春にならないかな。