昨日は朝早くから「キッチンお片付け」のために、ものを全部、ダイニングに敷いたレジャーシートの上に出す作業をして。
その際、宇多田ヒカルの「Letters」を流しながら作業をしようと思って。
持っているCDを探してみたら、2002年のアルバム「DEEP RIVER」に収められていて。
(なんと! 19歳のときの、なのね。)
暖かい砂の上を歩き出すよ
悲しい知らせの届かない海辺へ
君がいなくても太陽が昇ると
新しい1日の始まり
すぐさま、お母さんの藤圭子との別れをイメージする。
けれど。藤圭子が亡くなったのは、2013年だから。
言うならば。「先取り」不安のような、感じ。
それでも。
何か大きなできごとがあっても。
日常は、ショックを受けている「私」の気持ちなど、お構いなしに流れていく、様子が。
最初の出だしで、あって。
まあ、そうね。
自分が存在している世界に。取り残された感じ。
それから。
ああ 両手に花を 胸に嵐を
ああ 君にお別れを
ああ この海辺に残されていたのは いつも置き手紙
…
ああ 花に名前を 星に願いを
ああ 私にあなたを
ああ 窓辺に飾られていたのは いつも置き手紙
両手に花を、と言われて思い出すのは、「花束を君に」(2016年)。
これは宇多田ヒカル自身が母藤圭子に贈った歌だと明言している。
花を。両手に抱えていても。心は嵐のように落ち着かなくて。
花に名前があるように。星に願いをかけるように。
それらが当然のことであるのと同様、「私」には「君」が必要で。
だけども、「君」は「私」を置き去りにしたまま、帰ってこない。
今日話した年上の人は
ひとりでも大丈夫だと言う
いぶかしげな私はまだ考え中
ああ、彼女は誠実だな、と思う。
自分が「ひとりでも大丈夫」とは、私も思わなかった。
10代の頃、あんなに「取り残される」のが怖かった私が。
だけど。年月が経って。「ひとりでも大丈夫」な私がいるけど。
でもそれは、もっともっとあとになってから。
20代でも30代でも。40代でもダメだった。
だから。10代でそれは無理。
でもだからこそ「いぶかしげな私はまだ考え中」と。
むやみやたらと、結論は急がない、のが誠実。
何に対して? それは自分に対して。
ああ 夢の中でも 電話越しでも
ああ 声を聞きたいよ
ああ 言葉交わすのが苦手なら
今度急にいなくなる時は 何もいらないよ
「今度」という言葉に。私は胸が締め付けられる。
もう「今度」はないんだと知っていながら。
「今度」を持ちかける。
なんて…切ないんだろう。
「今度」があってくれるなら、「置き手紙」も何もいらないから、と。
「今度急にいなくなる時」があるということは。
もう一度、帰ってきてくれるということだから。
それほどまでに恋うるのか、と切なくなる。
切なくて。涙が出てくる。
この言葉が19歳の時に生まれたのかと思うと。
この人の半端ない「淋しがり方」に切なくなる。
まあ、もう。年齢は関係ないのかもしれない。
いろんな、これから起こるであろうことを、先取りしていただろうから。
この人の歌う「淋しさ」は。人の根源的な淋しさだろうから。
でも! 宇多田ヒカルは今年42歳になったそうだけど。
私とは違って、40代初めでもう「吹っ切れて」いそうな気がする。
ライブ映像を見ても、何か自然体で、無理がなくて。自在に自分を生きている感じがする。
そのことに。心底よかった、と思える私がいる。
…まあ、勝手にそう思っているだけだけど。
画像は2021年4月10日に撮った、葉が出てきた桜花。
遅れて咲いたから葉が出てるんだけど、これもまあ色目的に良いかもしれない、と思えて。
なんとなく。周囲の葉が守ってくれている気がする。