ある小アジサシが、或る日突然、飛べなくなって…ということで物語は始まります。
主人公の小アジサシの「ひとり語り」という形で進んでいくのですが、この小アジサシくん、やたらと理屈っぽい。
非常に哲学的に自己分析していくのです。
あれこれ、翼、羽、脚…と自分の「部品」をチェックするのですが、どこも異常なしという結果で、そして早い段階で、次の考えに辿り着くのです。
「そして結局、ぼくは、自分の内面が壊れたとの結論に達したのだ」
…まあ、こうなると、小アジサシ、と思わない方がいいですね。
小アジサシの姿をした人間、とでも。
そして、「飛べない生活」に突入した彼は、飛んでいた頃には気づかなかったあれこれを発見していきます。
そうして、どのようにして飛べるようになったか。…ネタバレになってはいけないので、ここでやめますが、この哲学的な小アジサシに、私は不調に陥った人間の姿を見ました。
これまで当たり前にやってきたことが、ある日突然、理由もわからず出来なくなる。
何がいけないのかと、あれこれ探ってみるけど、一向にわからない。
身体はどこも悪くない、ということしかわからない。
ただ、焦りだけが自分の中で一杯になっていく…。そして、焦れば焦るほど、アリ地獄にはまり込んだアリのように、もっと足を取られて身動きできなくなっていく…。
この小アジサシが賢明なのは、どこも悪くないとわかった後、無理矢理飛ぼうとしなかったことですね。
地面に張り付いた生活を始めたことです。
その生活で発見したことを元にまた、飛べない自分について考える。
これはまるで、「おこもり生活」と同じですね。
学校に行けなくなったら、学校に行くことばかりを考えるのではなく、「学校に行かない生活」の中で、あれこれ考える、というのもアリなのではないか、と問われている気がします。
訳者のあとがきの一部を紹介してこのコラムを終えたいと思います。
「思うに、二十世紀は高く飛ぼうとする時代だった。
いまは逆に飛べなくなって呆然としている鳥たちの時代だ。
そういう時に、この物語が登場するというところがおもしろい。この本は必ずしも多くの普通の人に読まれる本ではないのではないか。
飛べないことで悩んでいる人、急に飛べなくなって困惑している友に、この一冊をそっと手渡したい。」