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  4. ブッダは呼吸、ブッダは歩み〜ティク・ナット・ハン著『仏陀の<呼吸>の瞑想』〜
 

ブッダは呼吸、ブッダは歩み〜ティク・ナット・ハン著『仏陀の<呼吸>の瞑想』〜

2019/06/07
ブッダは呼吸、ブッダは歩み〜ティク・ナット・ハン著『仏陀の<呼吸>の瞑想』〜
今春、ゲシュタルト仲間であるともこさんからの紹介で、「Zoomでサンガ」という集いに参加するようになりました。
それは、二週間に一度ぐらいのペースで、ほんの40分間の穏やかな時間。
ティク・ナット・ハン師(ヴェトナム生まれの禅僧)の『仏陀の<呼吸>の瞑想』(野草社)の一節を、誰かが読み、そのあと、感じたことを各々がシェアする時間。

私もそのテキストを手にしてみました。
「いったん止まって、息をしましょう」と題された「序」(?)の部分に、次のような文章がありました。


“私が住むプラムヴィレッジには、蓮池があります。蓮は泥なしには育ちません。大理石に蓮を植えるわけにはいかないのです。蓮の花が開くためにはどうしても泥が必要であり、理解と思いやりが生まれるためには苦しみが欠かせません。苦しみを抱擁し深く観つめるとき、私たちはそこから多くの学びを得ることができます。
 仏教では、「ブッダに帰依する(よりどころとする)」という表現をよく使います。このブッダとは、どこか遠いところにいる人物のことではなく、私たちの内なる気づきと集中と洞察のエネルギーのことです。
 私たちは思いやりの種を心のなかに持っています。だれでもときには理解や共感を発揮できるときがありますが、そのエネルギーは自分自身のなかから生まれます。これが内なるブッダのエネルギーです。ブッダはつねにあなたとともにあり、望めばいつでも触れられるところにいるのです。
 いつでも、どこにいても、ブッダに触れられる方法のひとつ、それが呼吸です。”(pp.18-19)


蓮の花が泥なしに生まれないように、苦しみなしには、理解と思いやりが生まれない…。
まず、その一節が心に染みました。とはいえ、余りに苦しみが大きいとき、人はどうやってそれに耐えるのか?

理解や共感のエネルギーは自分自身の中から生まれ、それは「内なるブッダのエネルギー」であるという。

 

「帰依する」ということを、「信じる」とか「信者になる」程度にしか理解していなかった私は、「拠り所とする」という表現にちょっと、はっとしました。

…自分の、依って立つものを定めることだったんだ!

そして、その内なるブッダのエネルギーに触れることで、自分の軸を創ろうとする。

 

引き続いて、ティク・ナット・ハン師によって書かれたいくつかの偈(げ)ーー瞑想のための短詩。

 

 

“呼吸の偈 その一

 ブッダに呼吸してもらい

 ブッダに歩んでもらう

 私が呼吸することはない

 私が歩むこともない

 

はじめのうち、私たちと内なるブッダの間には区別があります。しかし、ブッダに呼吸と歩むことをお願いすれば、呼吸と歩みを楽しめるようになってきます。

 

呼吸の偈 その二

 ブッダが呼吸している 

 ブッダが歩んでいる

 私は呼吸を楽しむだけ

 私は歩みを楽しむだけ

 

呼吸の偈 その三

 ブッダは呼吸

 ブッダは歩み

 私は呼吸

 私は歩み

 

ふつうは人がいて呼吸が有り、人がいるからこそ歩みが成り立つのだと考えられています。しかしじつのところ、歩みや呼吸はそれ自体で完結しており、「私」が歩くことも「私」が呼吸することも不要なのです。

雨を例に取りましょう。「雨が降っている」とか「風が吹いている」という言い方をしますね。降らなければ雨でなく、吹かないのは風ではありません。ブッダがともにいるとき、呼吸や歩みにも同じことが言えます。私たちはここで、無我のリアリティに触れはじめてています。そこでは呼吸だけが生じています。そして歩みだけがあるのです。”(pp.20-23)

 

 

呼吸と歩み。瞑想に呼吸が関係するのはなんとなく理解していたつもりだけれど、なんで「歩み」が出てくるのか、最初はよく分からなかった。

他の箇所も読んでいると、どうやら、ティク・ナット・ハン師は「歩く」ことをひとつの行(ぎょう=仏道修行の手段・方法)の形として、実践していることが分かった。

 

いろんな思念にとらわれて苦しいとき、「私」から離れて心の安寧を図りたいとき、「私」が呼吸するのでなく、歩くのでなく、ブッダに呼吸してもらい、歩んでもらい、そういった状態にいることで、「私」を離れ、苦しみから離れる。

 

ブッダ(仏陀)とは、訳者島田啓介の「訳語について」によれば、

 

“目覚めた人。歴史上の釈迦牟尼仏陀であると同時に、普遍的な目覚めた存在をさす。また、万人の内なる目覚めの意識をさす場合もある。”(p.268)

 

…となれば、「私」個人を離れ、まずは、釈迦牟尼に身を寄せ、更には「万人の内なる目覚めの意識」と繋がろうとするのだろうか?

 

 

 

訳者注に次のような解説がありました。

“タイ(ティク・ナット・ハンの愛称。タイとはヴェトナム語で先生の意)苦しみとは現実それ自体がもたらすものではなく、思考が作り上げるものだと指摘しています。その思考を止め(止=サマタ)、対象の本質を深く見抜く(観=ヴィパッサナ)ことが、ここでいう瞑想です。彼はさらに言います。「終わることのない思考の混乱に巻き込まれていても、自分の呼吸に完全に気づくことができれば、それを止めることができるのです」

「息を吸いながら、腰をおろしている」「息を吐きながら、テーブルを拭いている」「息を吸いながら、自分に微笑む」「息を吐きながら、ガスコンロに点火する」こうした日常生活の動作のなかで思考を止め、観の瞑想を行うことが、「触れるものすべてが新たになり」、解放に向かう扉の入り口を開いていきます。”(pp.256-257)

 

 

ああ、そうね…。いろんな不安が押し寄せていて、それに飲み込まれてしまいそうな気持ちになるときは、思念に覆われて、頭がグルグルしている。

過去や未来に目がいって、「今、ここ」にはいない。

そんな時に、呼吸することや何かの動作をすることそのものに自分を置く。

 

苦しみに囚われて、その苦しみの中にいるとき、誰も自分の周囲にはいなくて、自分ひとりが苦しんでいるように思ってしまう、のだけれど。

そんな時、まずは、釈迦牟尼仏陀という特定の存在とつながっていると思うことは、ある種の救いをもたらす、かもしれない。

「お遍路」の「同行二人」もそんなイメージか。

 

息をするのも苦しいときには、…死にたいと言うより消えたい、ときには、

「私」ではなく、ブッダが呼吸し、ブッダが歩むのについていく、だけでいいのかもしれない。

呼吸することや歩くことそのものにブッダが宿り、そのうち、呼吸や歩みの動作そのものの内に、「私」の苦しみは消滅する。

…思考を止めること、それが解放への足かがり。

 

 

“呼吸の偈 その四

 ここにあるのは呼吸だけ

 ここにあるのは歩みだけ

 呼吸している人はいない

 歩いている人はいない

 

呼吸の偈 その五

 呼吸しながら安らいでいる

 歩きながら安らいでいる

 安らぎは呼吸

 安らぎは歩み

 

中国の伝統医学では、医師が患者に癒し効果のある美味しい食物を与えることがよくあります。口にするだけで心地よくなり緊張がほぐれて、癒しがはじまる食べ物です。瞑想も同じです。坐るときには坐ることを楽しみ、息をするときには息を楽しむこと。自分自身が楽しんでいるとき、癒しと変化は自ずから起こってきます。

立ちどまって呼吸に帰り、一瞬一瞬を深く味わうこと、それはすべての先祖のための贈り物です。心安らかな一歩、微笑みながら満ち足りて大地に触れることはとても大切です.瞑想するのはあなただけのためではありません。それによって世界全体が恩恵を受けるのです。”(pp.23-24)

 

 

ゲシュタルト(療法)も、「思考をストップさせる」ことを言うけど、ね。

ゲシュタルトの場合は、思考を否定するのでなく、思考に偏りすぎているから、バランスを崩しているから、ストップさせることを促す。

 

そんなあれこれを思いながら、今しばらく、この本の言葉を味わっていこうと思います。

今、辛いさなかにいらっしゃるのではないか…と思うSさん、Rさんに想いを馳せながら、私はこの言葉をこんな風に受け取ったよ、と語りかけながら。

 

画像は昨年6月、朝のアンジーとの散歩中に撮った、ご近所の紫陽花。

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