「読書への誘い」を読み返していて、ふと第99号で紹介した俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』が目に止まって。
浅井和代の短歌「いつかふたりになるためのひとりやがてひとりになるためのふたり」を取り上げての箇所だった。
≪口語自由律の歌である。
作者は、文語や定型にとらわれない新しい形の短歌を模索している一人だ。
私自身は、短歌という表現手段を選んだからには、五七五七七の定型は守りたいと考えている。
そのリズムは、なんてことない自分の言葉に力を与えてくれる、魔法の杖のようなものだと感じているから。
口語自由詩は、この魔法の杖を使わないという、実は不自由なところから出発しているというこ とを、忘れてはならないだろう。
その上で歌になるということは、たいへんなことだと思う。
掲出歌は、私が愛誦している数少ない自由律の一つだ。
「言いあてられた」というのが、この歌を読んだときの第一印象だった。
今、自分が一人でいるということ。それは、どんな人とも二人になることができる可能性を秘めた状態なのだ。
そして今、自分が二人でいるとしたら、それはやがてくる別れを含んだ状態である。
人の心も生命も永遠ではないのだから......。
すべてがひらがなで書かれている。
なにかそれは、少女がぽろっと人生の真実を言葉にして 呟いてしまったような、純粋さと恐ろしさとを感じさせる表現だ。
と同時に、最後の「ふたり」という言葉にたどり着いた途端、また最初の「いつか」という言葉に戻ってゆくような、メビウスの輪のような終わりのなさをも感じさせる。「いつかふたりになるためのひとりだけれどふたりになっ たとしたらそれはやがてひとりになるためのふたりででもやがてひとりになったとしたらそれはま たいつかふたりになるためのひとり......」というように。
人生を二色にわけるとしたら、一人でいるか二人でいるか、すなわち恋愛をしている時間かそうでない時間の二色だ——そんなふうにもこの歌は読めるだろう。 希望は絶望を含み、絶望は希望へと繋がり、幸福は不幸を含み、不幸は 幸福へと繋がる。
人生において対立するかのように見えるものは、実は同 じことの表と裏なのだ——そんなふうに捉えることもできる。
小学生にもわかるようなやさしい言葉だけで書かれた歌だが、読む人の人生経験や心の状態に応じて、無限に悲しくも嬉しくも響く一首だ。
あさい・かずよ 1960年、奈良県生まれ。「新短歌」所属。歌集に『春の隣』 (pp.22-23)≫
先日、結婚して10年になるご夫婦がペア・カウンセリングに来られた。
10年の間にできてしまった、二人の間の大きな「溝」に、夫はなんとか今の形を変えないままでの修復を望み、妻は…その大きすぎる「溝」にたじろいで、疲れを感じている印象を受けた。
この人と結婚しよう。この人と人生を歩んでいこう。そう思って、歩き始めたはずなのに。
妻には、結婚前には見えなかった相手の立ち位置が大きく覆いかぶさってくる。
妻の側に大きく覆いかぶさるのは、…経済的に、夫に依っているから。
経済の論理だけで家庭は成り立っているわけではないのだけれど、ついつい「勘違い」してしまいがち。
まあ、わからなくもないけど、ね。
だって、賃金を得る仕事って、イヤなことが多いもの。
8割方イヤで、残り2割ぐらい、もしかすると人に喜んでもらえて「良かったー」ってなるかもしれない。
だから、稼いでくる側の論理として「しんどい思いをして働いてるんだから、ちょっとは、そこんところ、わかってよ」
っていうことになるのかもしれない。
でもね。家事育児は「賃金換算されない労働=シャドウ・ワーク」だから、ついつい蔑(ないがし)ろにされるけど。
「明日の労働力の再生産」を担っている、大事な仕事なんだよ。
そんなことより何より、ふたりでいて、ふたりが「居心地」のいい状態でなければ、よろしくないよね。
長続きしない。
問題は「家事育児」と「賃金労働」を役割分担的に分けるから、互いの立場や辛さが分からなくなってしまってすれ違うんだ、
だから共働きして、賃金労働も家事育児もふたりですれば、お互いが思いやれるハズ…そう思ってたけど、それだけじゃ、足りなかった。
お互いが、そもそもの「立脚点」が違う、ということ。
家事育児は、男にとって、どこまでいっても「お手伝い」でしかない、ということ。
「分かり合えるハズ」ではなく「分かり合えないかもしれない」から出発できるかどうか、だということ。
分かり合えない、から、もう分かり合うことを諦めるのではなく、
分かり合えないものかもしれない、けど、分かり合おう、として努力することを諦めない、か。
30代、40代初めの私は、諦めちゃったなあ…と思う。
ああ、もうイヤだ! 子どもは育てないといけないけれど、夫まで育てなくてもいいでしょ! と思った。
仕事が…高校生相手だから、余計に、家に帰ってまで!があったかもしれない。
私の責任じゃない! と。
不遜(ふそん)にも、「夫を育てる」と思ってしまった。
でも…今から思うと違うのかもしれない。育てなければならなかったのは「ふたりの関係」。
あとは…そのエネルギーを費やしてでも、大事に思う相手かどうか、かもしれない。
どこか、尊敬できるところ、いいなあと思えるところがないと。
それでも、どんな相手ともお別れの時が来ることを考えると、「やがてひとりになるためのふたり」なんだなあ、とも思う。
20年前には見えてなかったこと、うまく伝えられるといいなと思いつつ、カウンセリングを続けます。
画像は2017年7月7日に撮った、北海道、富良野のラベンダー畑。
コロナ自粛でどこにも出かけなくなっている私から、ひとりでふらっと出掛ける気軽さを取り戻したい気がしています。