「ゲシュタルト対話セラピースーパービジョンワークショップ」が昨日からズームで行われています。
これは、「ゲシュタルト対話 × ライブスーパービジョン × オンライン」ということのようで。
2日間の午前中は「ゲシュタルト対話セラピー」についての講義、午後からスーパービジョン、という試み。
今年の10月初めにDr.ナンシー・アメンド–リヨンさんの「ゲシュタルト対話セラピー」の講義を受けた後だったので、
百武さんが「ゲシュタルト対話セラピー」の流れをどのように受け止めているか、にも興味があって申し込んだのです。
オンラインでスーパービジョン、というところには、ちょっと抵抗感があったのですけれど。
百武さんの講義は、振り返ってみると、非常に綿密に構成されたものでした。
まず、「ゲシュタルトの理論とアプローチ」として、「ゲシュタルト心理学」の原則を確認。
「ゲシュタルト心理学」は、「世界をどのように知覚するのか」という実験心理学。
① 世界を意味あるゲシュタルト(全体性)として知覚する。
② 全体は個の総和以上の存在である。
③ 個人は特有の体験をする。
そして、従来から「場の理論」がどのように捉えられてきたか、を見る。
クルト・レヴィン:Kurt Lewin(1890ー1947):ゲシュタルト心理学者
① 「集団」を心理学的な「力の場」としてみた。
② 個人心理学から「“場を構成するもの同士”の関係性(人・環境)」とした。
③ 個人は環境との相互作用で「欲求、動機」が左右される。
マルコム・パレット博士:Malcom Parllet.Ph.D
① 「場」は全体という概念があり、そこにいる人々と「今、ここ」の“空気”によって創られる。
② クライアントとファシリテーターが共同で創造する関係の場
③ グループでは参加者とクライアントとファシリテーターが共同で相互に場をつくる。
次に、フリッツ・パールズとローラ・パールズの「違い」を整理されました。
フリッツ・パールズ
・クライアントの気づきのプロセスを重視
・クライアントと対決的
・ダイナミック
・エンプティーチェア
・クライアントの気づきの体験を共有
ローラ・パールズ
・クライアントと対話に重き
・クライアントとの場を共有
・対話的
・関係性
・クライアントの気づきのプロセスをサポート
フリッツとローラの大きな違いは、「クライアントの気づきの体験を共有」しようとしたか、「クライアントの気づきのプロセスをサポート」しようとしたか、にある、とする指摘は、なるほど! と唸ってしまいました。
両者の違いを確認しておいて、「対話」に取り掛かる。
「対話と会話」(Robert Resnick 2020)
1 会話とは、自分のことではなく人のことを話す。
2 対話とは、自分のことを話す。
レズニック博士! 今年1月ファシリテーター集会に来られました。
(百武さんは「去年」と言われたけど。ももちゃんの中ではもう「去年」になっているんだなあ…と思って聞いていました。)
「対話と受容」(Robert Resnick 2020)
1 Unconditional accept(無条件の受容)
若い時のRogersはクライアントを受容した。
クライアントから影響されない立場を取っていた。(後で否定)
2 ゲシュタルトはそれは対話でない
「クライアントから影響を受けた」ことを伝える時に対話が始まる
「対話とは」(Robert Resnick 2020)
1 Primary experience(一次経験)
最初に感じた感覚を伝える
2 図/地の転換が起こる
クライアントの地が浮かび上がる
クライアントとContactが可能になる
つまりは、クライアントの「図/地の転換」が起こらないような関わりは、「対話」とは呼べないのだ、ということか、と。
次に、マルティン・ブーバー(神学者)の話になり。
ヨンテフ:Gary Yontef.Ph.D
・接触を通じて人々は成長し、アイデンティティを形成する。接触とは、「私」と「私でない」の境界の体験である。
「我ー汝とは II」 Martin Buber
人との関わりは2つある。
1 我ー汝 …目的達成のための関係性ではない。愛がある。(愛情のこもった友情・親子関係)
2 我ーそれ …私にとっての道具。搾取が生じる。
対話の特徴
1 Inclusion(包括)
他者の体験にできるだけ完全に自分を入れながら、同時に、自分の独立した自律的な存在感を維持すること
2 Presence(存在)
・ゲシュタルトセラピストは、クライアントに自分自身を表現する。
・今ーここ にいる
3 Commitment to dialogue(対話へのとりくみ)
4 Dialog is Live(対話は生きている)
・対話は生きている
・対話は、話をするのではなく、行われるのである。
「1」に対する、百武さんのコメントが面白くて。
「他者の体験にできるだけ完全に自分を入れながら、同時に、自分の独立した自律的な存在感を維持」なんて、実際そんなことができるのかってことを哲学は言うから、だから哲学は信じないんだ、と。
ふふふ、と笑ってしまいました。…確かに。ちょっと無理そうな命題だね。
一方で、私は10月10日に受けた、池見陽さんのフォーカシングの講座を思い出していました。
これもオンラインで、でしたけれど。「共感、ではなく、追体験」の言葉が、蘇ります。
さて。私の質問。
「百武さんが、ローラの一派がゲシュタルトがグループワークで始まったことを見落とし、「1対1」の関係性を取り沙汰して名付けた始まりが「リレーショナル」と捉えていらっしゃることを理解しました。非常に興味深い視点だと思います。リレーショナルと言われ始めたのは、いつ頃からですか? そして、その「見落とし」に対して、そうではない、という異議申し立ては、これまでなかったのでしょうか?
それから、フォーカシングの池見さんが、「共感ではなく、追体験」と言われることにも、共通するものがあるように思います。ロジャーズの「共感」は、百武さんの言葉にもありましたように、「おうむ返し」ではない、自分はこのように捉えたのだけれど、という「確認」なのだと池見さんもおっしゃっていました。‥となると、フォーカシングも非常に近いところに位置するのか…と思ったりしますが、百武さんはどのように思われますか?
ももちゃんの答え。
・リレーショナルと言われ始めたのはいつ頃からか? 「最近。ここ10年、20年。」
・フォーカシングも非常に近いところに位置するのか? 「そう思う。」
さて。いよいよスーパービジョン。
2つ目のワークの、ワーカーに手を挙げました。
手を挙げたものの…はっきりとこのことをワークしたい! があったわけではなくて。
…ちょっと困ってしまって、目線を上げて、ベランダの方を見ました。
カーテン越しに青空が見えた。
一年前に、青空フォーカシングをした時のことを思い出した。
だけども、今日の青空には雲がない。
雲ひとつなく、晴れた青空。
私の心は…もやっと感がある。
やはり、その「もやっと感」を見ていくしかないな、と思った。
ファシリテーターはずいぶん丁寧に、私についてくれていた。
心穏やかな時間。私に不満はなかった。
でも、今、コラムにまとめていて、ああそうか! と気づいたことがある。
「図/地の反転」が起こる「対話」ではなかった!
ワークを終えた後に、私に新たな「気づき」があったか、というと、「確認」はあっても「反転」ではなかった。
私の抱える問題の、新しい視座となるものではなかった。
「対話」と「会話」。
難しい。ファシリに聞いてもらっている時間、ある意味、「居心地の良い状態」であったから。
聞いてもらって心地良い状態も必要だけど。
…そうか。私の方に、自分の人生にどのように対峙するか、の覚悟が決まらない時には、心地良さを欲してしまう。
ゲシュタルトのワークには、いろんな心の段階のものがあっていいのだけれど、しかし、視座を変える、ほどのワークは、自分がそれを欲していないと始まらない、ような気もする。…いや、それもファシリの関わり方、なのだろうか?
今日は、私がスーパーバイズを受ける日。
さて。どんな一日になることやら。
画像は、聞き耳を立てる杏樹(アンジー)。
まあ、いいか。おまえはママの話をちゃんと聞いてくれるもの、ね。