12月22日。年の瀬も迫る日。
第5章「空の記しー空相」を読む。
「空は三解脱(げだつ)門の一番目の門です。この教えは初期の仏教経典に数多くみられますが、般若心経より千年ほど前に成立しました。」(p.62)と、本文が始まる。
「三解脱門」とは、「無常」「空」「無我」の3つを指し、「門」とは方法のこと、と、慈照尼から説明を受ける。
「私たちの体、感覚、認知、心の形成、意識は、今この瞬間とその次の瞬間では同じではないことを見てきました。
つまり、五蘊(ごうん)は刹那的に変化し、展開しているわけです。
そして空が対象としているのは、私たちが『我(が)』と呼ぶところの五蘊だけではありません。
あらゆる現象もまた空なのです。(pp.62-63)
「ブッダ在世の時代、神聖なる真我の概念は、インドの精神修行の伝統のほとんどに共通して見られた信仰でした。
人びとは、私たちの中を観察して見ることのできる変化のすべての底には、変わらないもの、不滅の魂のようなもの、つまり何か根本的な要素があると信じて、それを『アートマン』(真我しんが)と呼びました。
肉体が朽ち果てても、魂は別の肉体の中に存続し、必要なことを学ぼうとして、生と死のサイクルを何度でも繰り返す、と信じました。
精神修行の目的は『ブラフマン』(梵ぼん)という絶対的で崇高な大きな我に、小さな我であるアートマンを再び結合させることでした(梵我一如ぼんがいちにょ)。」
(p.63)
「アートマン」と「ブラフマン」!
…昔、そう、高校1年のときに、「倫理」という科目で、その語を教わった記憶がある。
そんな詳しい説明もなく、ただ、語の紹介に終わっただけ、だった気がするが。
「しかしブッダは説法を始めたころに、この考えかたに異議を唱えました。
『我』と呼ぶようなものはない、と説いたのです。
これが革命のはじまりでした。
現象はさまざまな原因と条件が形になってあらわれたものであると、ブッダは指摘しました。
永遠で不変の現象はひとつもないのです。
ーーーそのような存在をアートマンと呼ぶにしろ、ブラフマンと呼ぶにしろ、あるいは個人自我、宇宙真我と言うにしろ、どれひとつとして現象の中に見つけることができないのです。
ブッダの教えは、個人自我と宇宙真我のどちらの概念も解体することを目指しました。」(p.63)
「アートマン」と「ブラフマン」という概念は、「絶対的で崇高な」存在を想定していないと淋しくなるから、ではないかという気がする。
人は、何か「大きな、いつもそこにある」存在に、自分を委ねていくことで、安心、を得ていたのではないか。
しかし、ブッダはそれを否定する。
人々の、大いなる安心を打ち壊してでも、ブッダは何を「真理」としたのだろう?
「現象はさまざまな原因と条件が形になってあらわれたもの」。
「永遠で不変の現象はひとつもない」。
雲のたとえで言うと。あるときは、雲の形をしていて。あるときは、水滴で。またあるときは、水蒸気で。
さまざまな原因と条件で、その「形」を取るけれど。
その「形」に着目して言えば、「永遠で不変」ではない。
たまたま今は、雲だったり、するけれど。
生き物として、人として今は形を成している、けれど。
その「人」としての形も、老いていくから、どんどん変化し。
終いには「死」を迎えたりするけれど。
…それは、「水滴」に形を変えただけ、かもしれない。ということだろう。
うん。だから「雲」の形に執着する必要はない。
「雲」の形もひとつの「相」に過ぎなくて。
そんなふうに「看過」する。
(「看過」は、見逃す、見過ごす、大目に見る、対策を取らずに放置する、の意味だけど、本来は、「眺めて過ごす」の意。
今は、良くない意味で使われているけれど、本来はそうではなかった、のでは? という気がする。)
一つの形に「執着する」ことから、ブッダは人々を解き放とうとしたのではないか?
「『説一切有部(せついっさいうぶ・サルヴァスティヴァーダ)』は、一世紀以前にカシミール地方で確立し、インドの北西部で千年ほど栄えた、影響の強い有力な仏教学派でした。
この学派に属する数々の重要な経典が、サンスクリット語から中国語に翻訳されました。
この学派はブッダの教えに忠実であろうとし、我という実態はないと説きましたが、同時に、私たちを作り上げている基本要素ーー五蘊、六根(ろっこん)、六境(ろっきょう)、六識(ろくしき)などーーには、本来の存在はあるというのが事実だとも主張しました。
これはブッダが決して言わなかったことです。
説一切有部によれば、五蘊にはその人の『自我』はないが、五蘊のそれぞれの蘊には、それ自体で独立した実体はたしかにあるというのです。これでは、玉ねぎに芯はないが、それぞれの皮の層には独立した実体がある、と言っているようなものです。
さらにこの理論では、あらゆるものを極小の要素に分割することができ、それらは独立した要素として存在しうる、としています。」(p.64)
「けれども量子力学の到来とともに、科学者たちはそのように物質を見ることはなくなりました。
物質は素粒子から構成されている原子の集合体であり、その素粒子もまた、独立した実体として存在しているのではなく、全体の一部分としてしか存在できないことを認めています。
この原則に従うなら、電子は電子以外のものだけから成り立っていることになります。
電磁場がなければ、電子は電子ではありえません。
陽子にしても、中性子にしても同じことです。
それだけが単体で独立した物体ではないのです。
中性子は、中性子以外のものからできていて、陽子も陽子以外のものでできています。
宇宙にあるそのものは、それ以外のすべてのものとかかわり合って存在しています。
それだけでなく、素粒子は常に動的(ダイナミック)に変動していて、固体として特徴づけることはできないのです。」(pp.64-65)
「説一切有部」とは、「一切が有る」とする学派。「部」とは学派のこと。のちの大乗仏教(多くの人も含めて解脱を目指す)の流れとなる学派。
ティク・ナット・ハンさんは「ブッダの教えではない」と否定する、との慈照尼の解説が加えられる。
「物質」が「極めて小さく不変の粒子」から成り立つという仮説・概念は、紀元前400年ごろの古代ギリシアの哲学者レウキッポスやデモクリトスの頃から存在していた。しかし、当時あまり評価されず、その後2000年ほど間、大半の人々から忘れ去られる。
19世紀に入り、科学者たちが、「分子」や「原子」の存在を追究し始める。
うーん。私がかろうじて覚えているのは「ブラウン運動」、かな。分子や原子の存在を実験的に証明出来る可能性が示された、のだったっけ?(私の記憶は断片的だから、困る。)
ただ…その後の科学の発達で、「ブラウン運動も観察者の意図を反映することがわかった」と知らされたような。
つまりは「客観的な観察」というものがそもそも成立しない、と。
そうすると、科学は主観的なものの見方から脱することを目して発展してきたわけだから(誰が観察しても同じ結論に達すること)、そもそもの立脚点が崩れる、わけで。
私はそんなに科学への理解に長けていたわけではないので、ホント断片的にしか記憶していなくて。(まあ、高校生の時の授業だから。)
ただ、そのことが何につながるのか、がわからなかったから、妙にそのことだけを覚えている。
つまりは、科学の発展が、「主観」「客観」の二元論では説明できない、自然界の事態を証明した? のだろう。
という理解を私はしていたから。
電子も陽子も中性子も、それ自体で成立しているのではなく、他の存在との関係性によって、初めて規定される、というティク・ナット・ハンさんの説明がすんなり入ってくる。
もの(=存在)には「動き」があり(=変化し)、他との関係で、今の形が規定される、ということ。
「固体として特徴づけることはできない」と言われることが、私にはすんなり理解できる。
「人間の体のみならず、すべての現象には、変化することなくそれだけ独立した実体(自性じしょう)はありません(自性の空)。
般若心経の中で、観自在菩薩はこの洞察をシャーリプトラに説いているのです。
この文脈では、あらゆる現象の空について説くブッダのもともとの教えを復興させたいという大乗仏教の意思の象徴が観自在菩薩であり、シャーリプトラは阿毘達磨(あびだつま)の象徴です。
阿毘達磨は説一切有部のように仏教哲学の諸学派の中心となった、仏説を体系化して分析する教えです。」(pp.66-67)
「阿毘達磨」とは「経(きょう)・律・論」のうちの「論」に当たるもの、とのこと。
シャーリープトラとは、智恵第一と称された弟子の「舎利弗(しゃりほつ)」のこと。
般若心経では、「舎利子(しゃりし)」として登場する。
「インタービーイングの教えは、どんなものでもそれだけが独立して存在することはできない、それぞれのものはそれ以外のものとかかわり合うことによってのみ存在できる、という教えです。
無常とは、常住不変なものなど何ひとつない、ということです。
インタービーイングは独立した実体はないという意味ですが、無常もまた独立した実体はないという意味です。
つまり空というものを、《空間》の視点から観ると「インタービーイング」と呼び、《時間》の視点から観れば『無常』と呼んでいるわけです。」(p.67)
「インタービーイング」! 前にどこかで聞いたなあ…とページを繰ると、p.38にありました。
「『インタービーイング(interbeing相互存在)』という単語は、まだ辞書には載っていません。
interという接頭辞にbeという動詞をつけるとインタービーinter-beとなり、新しい動詞になります。」(p.38)
そうか…! 《時間》から見たら「無常」であり、《空間》から見たら「インタービーイング」なのか。
ひとつのものをどの角度から見るか、だけの違いなのか。
「あらゆる現象には空が記されています。
時間においても、空間においても、本質的にそれだけ分離して独立した性質はありません(諸法空相)。
もしあなたが、人には独立した実体はないが、五蘊には真の実体はあると言うなら、ブッダの教えを五〇パーセントしか理解できていないことになります。
独立した実体は何ひとつないのです。この悟りは、大きな喜びです。」(p.67)
そうか。と思った。「独立した実体は何ひとつない」。
それは苦しみ、ではなく、大きな喜び、なのか。
自分を縛る執着から、自分を解き放つ「悟り」につながる教え、として。
ブッダからのギフトなのか、と思った。
何も、淋しがることは、ない。ただ、「そういうもの」なんだ、と看過すればいいだけで。
…なんだか、涙が出てきた。
夕暮れになると淋しがり、時間が経過して今が過去になっていく、ことを淋しがり、してきた私は、いつも「取り残される」不安に襲われていたように思う。
私は変わらずにそこに居て、だのに、私の周囲が変わっていく、と思っていた。
けれど、私自身も同じではいられない。
昨日の夕暮れを見ている私と今日の夕暮れを見ている私はもう違っていて、だのに、そのことに気づかずにいた。
気づかずに、同じ私でいる、と錯覚してた。
ああ、そうね。
いつまでも高校生の私ではいられなかった。
大学生になり、仕事をするようになり、子どもを産み、仕事を辞め、新しく仕事を始め…そして、今に至る。
今は…人が集える場所を作りたい!と願って、動いている。
そうね。私も変化してきている。5年ほど前には、今のような願いを明確には持っていなかった。
苦しみは…外からやってくるものではなくて。
自分の内から生まれてくる、ものかもしれない。
ならば。自分の内にある苦しみは、それと認識しつつも看過して。
それにとらわれることなく。
私は光の中にいよう。
なんとなく。そう思った。
画像は10月25日の朝のアンジーとの散歩で撮ったご近所。
陽に透けた緑の葉を撮りたかったのだと思うけど、今見ると、その奥に、実が光を反射して映り込んで、別物に見えるのが不思議な感じ、で。
多分、赤い実のハズなんだけど。
その瞬間、違った様相を見せる、のが「生きている」こと、と理解しました。