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安らぎと思いやりは自分自身から始まる〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』お茶会〜

2021/01/08
安らぎと思いやりは自分自身から始まる〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』お茶会〜
エクササイズ6「心をいたわり解放する」

九 息を吸いながら、心に気づく。息を吐きながら、心に気づく。
十 息を吸いながら、心を幸福で満たす。息を吐きながら、心を幸福で満たす。
十一 息を吸いながら、心を集中させる。息を吐きながら、心を集中させる。
十二 息を吸いながら、心を解放する。息を吐きながら、心を解放する。(pp.141-142)

月に一度の『ブッダの<呼吸>の瞑想』お茶会。
今月はエクササイズ6「心をいたわり解放する」を読んでいくことになりました。
これは、「日常のなかで生かせる七つの瞑想法」という章立ての6つ目で、
「十六の呼吸による気づきの瞑想」に添って、16を7段階に分けて解説されています。

今回は、アンジーはお留守番。

 心とは、蔵識(注…阿頼耶識・あらやしきともいう。人間の八つの意識の段階のもっとも深層にあり、存在を支える。そこに一切の法・ダルマを生む種子が内蔵されているとされる)のなかに種として存在する心理的な現象の集合です。
それらが意識上に心の固まりとして現われるとき、気づきのチャンスが訪れます。
心の固まりが現われたらすぐ呼吸とともにそれを確かめ、さらに観察を進めていくと、それが心の全体とどう関わっているかが見えてきます。
瞑想九は、「息を吸ったり吐いたりしながら、この瞬間に心に存在する思いを確認する」という意味です。
 心理的なこの形成物を意識的な呼吸で確認するとは、それを認め、受け入れ、それとひとつになることです。
ひとつになるとは、飲み込まれてしまうことではありません。
認め、受け入れ、ひとつになる働きをする主人公は、気づきのエネルギーだからです。
思いという心の形成物と気づきがひとつになったとき、思いはまったく自然によい方へと変化します。(pp.143-144)

「ひとつになるとは、飲み込まれてしまうことではない」と言う。
ただ、そういうものが自分の心の中にある、と認めるだけでよい、と。
心理療法的に「負の感情を認めるだけでよい。認めさえすれば、感情は滞らず、流れていく」とすることとの共通項を、私はそこに見る。
認めないで「なかったこと」にして押さえ込むと、「感情」は思わぬ時に思わぬところで流出する。
その時にはもうコントロール不能である。

ゲシュタルト(療法)的に言えば、「生物として必要なものを取り込み、不必要なものを排出する」動きがある状態が自然であり、
感情も滞ることなく流れていくのが自然であるのに、ショックなどを受けた時に、流れず固着する。
その動きのなさがトラウマとなったり、転移として、別な場面(時と場所を変えて)で、別な人物に投影される。
それが人間関係を上手く成り立たせない要因となる。

ゲシュタルト(療法)的に言えば、まずはクライエントが「自分が何をしているのか」に気づく、ための関わりをファシリテーターは用意する。
「気づき」さえすれば、何をどうしようとせずとも、事態は動く、とする。
むしろ、「余計なことはしない」ように、と注意深く、クライエントと共にいる、ことだけをファシリの役割として要求する。

うーん。「ひとりファシリ」をするような感じ、ね。

 あなたの内なる本来の家に帰り、自分を大切に扱いましょう。
まず身体、そして感覚、さらに思いという心の形成に対して。
まず思いの固まりが自分の心に存在することを認めましょう。
それにしがみついたり、しまっておいたり、執着することなく、かといって忘れることもせずに。
これが、思いをありのままに認識することです。
その存在に気づいたなら、本来の名前で呼び、「ここにいて大切にするよ、君は私自身なのだから」と話しかけましょう。
 わが家ーー自分自身に帰るなんて気持ちにはなれない、そういう人がたくさんいます。
そうするのが怖いからです。
私たちには、触れたくない心の苦しみや葛藤がたくさんあります。
 これ人生には時間が足りないと不平を言いながら、自分に立ち返ることもなく、暇つぶしに精を出す。
テレビを観る、小説や雑誌を手に取る、ドライブにでかける、そうして逃避しているのが私たちなのです。
私たちは自分自身から逃げ、体や感情や心の働きに向き合うことを避けています。
 自分という家に帰りましょう。親や友人、仕事場や社会ともめ事が起きるのは、あなたの心のなかで争いが起こっているからです。(pp.145-146)

 瞑想十の目的を満たすには、確信、誠意、思いやり、理解、忍耐、平静さなど、自分のなかにすでにある健全な形成物を知り、それとつながることです。
健全な心の働きに気づくたびに、心は喜びに満たされます。
 これによって安心感がもたらされ、集中力が養われます。
ブッダは、私たちが安らぎと喜びの感覚で満たされることを望んでいます。
心のなかの思いを喜びに変える(瞑想十)、つまり心を幸福感で満たすことは、自分の心のなかにもともと存在する尊い形成物(思い)に出会うことなのです。(p.150) 

 なぜ喜びを育むのでしょうか。
喜びは、私たちが強さを備え、瞑想の道を歩んでいくのに必要なエネルギーを与えてくれるからです。
ブッダは、身体の緊張を解き、心地よさを受け入れ、喜びと幸せの糧を得るなさいと教えています。
喜びを育てれば、幸福は揺るぎないものになります。(p.152)

 健全な種に水をやり、苦しみの種には水を注がないように、生活を整える必要があります。
疑い、絶望、怒りなどは、だれもが持っている種です。
人によって、それがより強いかそうでないかの違いがあるだけで。
他のだれからも苦しみの種に水を注がれたくはありませんね。
水を注がれるたびに苦しくなるのですから。
 苦しみの種への水やりを止めたら、さらに進んで、幸せ、慈しみ、許し、喜びなどの健全な種に水を与えましょう。
私はこれを「選択的な水やり」の実践と呼んでいます。
雑草ではなく花に水を注ぐ、そうすれば他の人たちの心にも花が咲きます。
水をやることでだれかの微笑みを見ることができれば、その幸せは自分に返ってきます。
瞑想の結果は思ったより早く現われるのです。(pp.153-154)

「選択的水やり」!
そうか、と思う。苦しみの種への水やりを止めること。そして、健全な種に水を注ぐこと。
わかっていてもできないのは、苦しみの種への水やりが不毛であること、に気づかないからだろう。
不毛さ、を身に染みて分かるためには、残念ながら、ひととおり「不毛である」ことをやってみなければならない、のかもしれない。

 その心の形成物に触れ、確認し、さらにその名を呼んでみましょう。
この瞑想から喜びのエネルギーが生まれ、「確信」という思いは強められます。
 否定的な思いを扱うときにも、それを確認し、名前を唱えて、心のエネルギーをそこに向けます。
心に受け入れ深く見つめるだけで、否定的な思いは変容をはじめます。
冷え込む朝に、目覚めて火を起こすとします。
炎の熱で空気は温まります。
部屋を暖めるのに、わざわざドアを開いて冷たい空気を追い出すことはありません。
必要なのは火の世話だけです。
 否定的な思いについてもすべきことはただひとつ、気づきの炎の温もりによって見守ることです。
対象への集中を途切れさせないことによって、初めて観察が可能になります。
観察によって心の対象は照らし出されます。
スポットライトの光のなかに立つステージの演者のように。
この対象は生きているので、時がたてば変化し、位置も変わります。 
主体である心も生き物です。
そして集中した状態において、主体と対象はひとつに溶けあうのです。(pp.154-155)

「心に受け入れ深く見つめるだけで、否定的な思いは変容をはじめる」。
まさにゲシュタルトでいう「気づきがあれば」。

「主体と対象はひとつに溶けあう」について。
前回のお茶会で読み合わせをした箇所で、四つの観念を捨てるように説くところがあった、ことに今、気づいた。
四つの観念とは「我相(=私はこの肉体である、と思い込む「自己」の観念)」、「人相(=「人間」という観念)」「衆生相(=「生き物」という観念)」、「寿者相(=「寿命」という観念)のうち、「我相」につながるところ。
つまり、自分という存在は、他との関係において成り立つもので、それ独自では存在しない。
となれば、他との違いに目を向けてその差異を言い立てるよりは、共通項を見ていくことで無用な対立は避けられるのではないか、というところ。

 親しい相手から無愛想で意地悪な言葉を言われたとき、心に結び目ができます。
たとえ小さくても、それは結び目には違いありません。
ほうっておくと大きな障害になりかねないのです。
もし相手が同じ過ちを繰り返したら、その結び目は大きくなります。
 これに気づかずにいると、互いに心に結び目を作り合い、知らないうちに相手と目も合わせなくなって、テレビだけ観て暮らすことになるかもしれません。(p.156)

 瞑想の経験を積めば、結び目が頑固になることを防げるはずです。
気づきの生活を実践している人は、結び目ができたときに気づきます。
正しく瞑想できているなら、それを放ってはおけません。
すぐにその結び目を解いて、幸福が長く続くように努めようとするはずです。
 心の解放というときの「心」とは、人を不安にさせ、苦しめ、方向を誤らせるような、さまざまな思いの固まりをさしています。
心を開けば、集中の光が対象のありのままの姿を照らし出し、解放に導いていきます。
これは糸にできた結び目を解くのと同じです。
心を落ち着け、じっくりと取り組んでいきましょう。
落ち着いて満ち足りた気持ちで、心をすみずみまでよく観察すれば、どんな混乱からも解放されます。
「息を吸いながら、すべての結び目が解けるように心を開く。
息を吐きながら、すべての結び目が解けるように心を開く」(p.157)

自分のやり方を絶対視して、「かくあらねばならない」と強要する人の話が出ました。
多分…不安と怖れを前提として、自分の秩序を保っているから、自分のやり方ではないことをする人に対して、それを自分への「攻撃」と捉えてしまうのだろう、と。
自分の世界(の秩序)を守るために、周囲を叱る、という行為に出るのだろう、と。
その「かくあらねばならない」を手放せば、もっとラクに生きられるのに、と。
不自由さを自分にも周囲にも強いてはいないか、点検する視点が必要な気がします。

この章は次の言葉で終わります。

 それでも、自分自身を助けられないうちは、相手を助けることはできません。
安らぎと思いやりは、いつでもあなた自身からはじまるのですから。(p.161)

p.141からp.161の長きにわたって読んできて、ここに至ったとき、各自の深いため息に包まれました。
ああ、そうだよね。そうなんだ。
自分自身が救われていないのに、人を救うことはできない。
まずは自分自身を救済すること。自分を見つめること。

今年の始まりに、とてもいいスタート地点に立てました。

画像は、小さなお花、小さなろうそくの炎がお洒落だった、お茶会のテーブル。
詢晃さんお手製のお菓子(エナジーボールって言われたっけ?)、とても美味しかったです。

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