2021年10月10日の折々のことば。遠藤まめたの言葉。
このとき、私はようやく、自分が「理解される側」からずっと降りたかったのだ、ということに気がつきました。
鷲田清一の解説。
高校時代に自分がトランスジェンダーだと友人たちに伝えたら、「残念な反応」もあったが、「ねえ聞いて」と逆に秘密を打ち明けられもした。
それがうれしかったと社会活動家は言う。
「『話してくれてありがとう』と定型文で言われる存在」の向こうに行きたかったと。
『みんな自分らしくいるための はじめてのLGBT』から。
うーん…。辛いことを打ち明けられた時には、まず「話してくれてありがとう」と言いましょう、と、何かで教わった気がする。
話してくれた人は、勇気を振り絞って口にしたのだから、と。
何回か、第一声でそういう「返し」をした記憶があるけど。
なんか。そぐわない気がしてやめた。ただ「…そうなんだ」と返すようになった。
今思えば。自分がこれまで人に言わなかったことを打ち明けたときに、そういう「返し」をされて、どうも落ち着きの悪さを感じたから。
ああ、それは、私は「打ち明ける側」、もっと言えば「気遣ってもらう側」に押しやられた気がしたからだ。
私の辛さは、もちろん軽く扱ってもらいたくはない。
けれど、だからと言って、一方的に「気遣ってもらう」弱い立場に置かれることを望んではいない。
自分の辛さを打ち明けるのは、何も「弱み」を晒すことではない。
抱えている問題の大きさを共有してもらいたいだけだ。
あ、でも。「共有」というのも違うか。
ただ…私の状況を「分かって」もらいたい、だけか。
私はこんな問題を抱えている。
それを「なんとかしよう」としているけど、…ときには、もがいたりもしているけど、決して「打ち負かされて」はいない。
なんとかしようとしている途上なのだ、ということを分かってほしい。
ああ、そうね。
そういうのが「しっくり」くる。
私は私の抱えている問題を投げ出したりしていない。
弱音を吐いているように見えるかもしれないけど、諦めてはいない。
そして、時間はかかるかもしれないけど、きっとなんとかする。
うん。そういうこと。
「『話してくれてありがとう』と定型文で言われる存在」の向こう、とは、多分、水平な位置関係。
どちらか一方が高みからものを言うのではない、フラットな関係。
あなた、と私。
私が望んでいる関係は、あなた、の姿が見えて、言葉が届く関係。
画像は、近くの小さな公園で走り回る、さら。
6月末にやってきトイプードルのアプリコット色の女の子。
生後6ヶ月の彼女との関係は…まだ、でこぼこ。