ボテっと重くて、あまり牡丹の花は好きではないのだけれど。
でも久しぶりに長谷寺に行ってみたくなって、アンジー連れてお出かけした。
カメラ。水筒。帽子。サングラス。アンジーの水筒。抱っこ紐。
そういった類のものは忘れないのに。
いつも忘れるのは「御朱印帳」!
この日も、やっぱり忘れていて。
あーあ。…まあ、直に書いて貰うのではなく、後で紙に書かれた御朱印を貼り付けてもいいのだけれど、ね。
でも、なんとなく「貼り付け」は味気ないなあと思っていたら。
なんと。「切り絵」の御朱印がある、というではありませんか!
御朱印代金は300円。
だのに、この「切り絵御朱印」は700円、だという。
それでも、切り絵の桜に見惚れて。
買ってしまった。
綺麗だなあ。
折り紙も好きだけど、こんな切り絵も大好き。
手先が器用でない私には、とても生み出せない作品。
眺めていて、飽きない。
下に置く色を変えたら、たぶんまた趣が変わる。
渡された袋に入っていたのは、薄茶色の台紙だけど。
ね?
下の台紙の色であれこれ遊べるっていうの、いいなあ。
変げ自在。
「実体」として確たるものがあるのではなく、「他との関係で自我が生ずる」っていうのは、ちょうど昨日、話していたことに通ずるような。
昨日は、一日中、Nくんと「風水」の話をしていたのだけど。
そこから「自我」「自分」というものを東洋ではどう捉えてきたか、の話になって。
「確たる自我」「確たる自己」は存在せず、何らかの「縁」「縁起」によって、立ち現れるもの、としての自分。
確かに。「確たる自分」とての実体なんて。ない、気がする。
まあ、そんなことはいいのだけれど。
切り絵の桜が美しい、というだけで。
もう、今年の春、も遠ざかって行きつつある、のだけれど。
行く春や 重たき琵琶の抱き心
って、誰の句だったっけ? えっと…蕪村だ。
そうね。春の終わりの、気だるさに身を置く術もない、というか…。
切り絵の桜は満開で。ここには春の憂いはない。
術、すべ、じゅつなげに。
そんなことを思う一方で、
切り絵の桜が美しい、というだけで、いいではないの、が湧き起こる。
いずれも。
短き春のまどろみ。
…おまけの長谷寺の牡丹。咲き始めが美しい。