8月の桃月句会は「夏休み」で。
ちょっと間遠になってしまって待ち遠しかった9月の句会。
リアル参加するつもりが。朝から「オンラインのみで」とのご連絡。
ちょっとがっかり。
私。やっぱりリアルで会うのが好き、なんだなあ、としみじみ。
まあ、お楽しみはまた来月、ということで。
今月、ご用意された句は、ホント興味深いものがたくさん並んでいて。
まず最初。
「姉母似妹母似鳳仙花 坊城俊樹」
ほお! と思う。
…何これ。漢字ばっか。
なのに、読んでみると、やわやかな和語っぽくて。
「あねははに/いもうとははに/ほうせんか」
確かに。みどり 先生の言われる通り。字面の固さと音が合ってなくて。
それから、確かに、みどり先生の言われる通り、「薔薇、とかじゃないんですよ、それも。鳳仙花、で。」
うーん、そうね。
姉も妹も、母に似て、薔薇のごとく、だったら。
何それ、って反感覚えられる、かもしれない。
鳳仙花。
ぱんと弾けて、種を飛ばす、ものだった、ような。。。
小さい小花が固まって咲いて。赤とか、赤紫色の小さな花。
あんまり自己主張しない、可愛いお花。
うん。坊城俊樹さん。
外面(そとづら)と、内面(うちがわ)の落差に驚く読み手に、ほくそ笑んんでいる、よね?
「秋の浜これきり逢はぬため歩む 畠山譲二」
みどり先生の解釈とは違って、私は人がいない、夏の喧騒が去った後の秋の波打ち際をひとり、歩いているイメージが来た。
もちろん、別れることにした恋人と、ふたり歩いていてもいいんだけど。
…なんだろう…。
昔、山口百恵が「これっきり、これっきり、もう、これっきりですか?」と横須賀ストーリーを唄ったけど。
この句の「これきり」にも、どうしようもない未練を感じる。
その未練を断ち切る、ために、ふたりで歩くのか、ひとり、なのか。
これはもう、これまでの人生の来し方がそこに現れる、ような気がする。
私は、多分、ひとりで歩いてきたのだ。
人が私から去る、あるいは、自分から去ろうとする時に、
私は、共に歩くことを拒んで、ひとりで歩いて、自分に言い聞かせ言い聞かせ、してきたように思う。
だから。多分、「どちらも正解」なんだけど、私には正解はひとつ、なのですよ、みどり先生。
「やはらかき身を月光の中に容れ 桂信子」
月光の中に「容れ」って。
私はまずこの「容」の漢字に魅かれた。
月の光の中に包まれる、わけですね。すっぽりと。
戦前、戦後の、この時代の女性俳人独特の「ナルシシズム」と評されました。
この時代の、自己愛を陶酔的に詠んだもの、と。
…確かに。「青踏」の平塚らいちょうや、与謝野晶子やらの歌人に繋がるような雰囲気。
この時代、自分で自分を愛でないと誰も愛ではしないのだから、というみどり 先生の言葉が残りました。
その身は限りなく「やはらか」で。
しかしそれは、我が心が「やはらか」ゆえで。
誰も見ていない中、ひっそりと月光の中に我が身を横たえる。
…そう、「月光浴」。
密かな楽しみ。私だけの。
「たましひのたとえば秋のほたるかな 飯田蛇笏」
芥川龍之介の自死を悼んで作られた句、だそうな。
それと知らなくとも、何か心魅かれる句。
私は、「たましひの」の「の」が気になって。
「たましひは」ではなく「たましひの」。
「たましひの行方」「たましひの在処(ありか)」。
「たましひの」と来れば、次の言葉を探してしまう。
その言いさして、途中でやめてしまう、中途半端さが、所在ない気持ちを如実に表しているようで。
なんと表現していいかわからない、その所在なさは、だから「たとえば」と、例示するしかない、ことに繋がっていく。
「たとえば秋のほたる」。
季節外れの、ふらふらと彷徨っている一匹の蛍。
仲間と外れ、行くあてもなさそうな、頼りなさ。
魂も。そんなふうに所在ないもので。どこにあるのかわからないけれど、しかし、ない、とは言えないもので。
しかしこれも、「在ってほしい」という、残された者の願いが生み出したものかも知れず。
…なんてことを、それこそ所在なく考えてしまった。。
本当に、豊かな豊かな時間です。
9月の30日に「レンタルスペース沙羅Sara」で倉橋みどり先生の「初めての俳句講座」開きます。
みどり先生の解説を聞きながら、自在に心を羽ばたかせる時間を多くの人に味わってもらえたら、と思います。
画像は、つい最近に点いたロゴ看板。
これを目印に来てくだされば、と思います。