9月30日にレンタルスペースで俳句の講座があり。
そしてその4日後に桃月句会。
このところ、俳句尽くし。
今回は22もの秋の句を用意してくださって。
まず最初はこの句。
ひらひらと月光降(ふ)りぬ貝割菜(かいわれな) 川端茅舎(ぼうしゃ)
大根の小さな葉、貝割れ。
昼間に見ていたその小さな葉の上に。
いまごろ、月の光が降り注いでいる、のだろうな、と想像している情景、ではないか、という解説。
月光は、燦々(さんさん)と、でもなく。
さらさらと、でもなく。
なんで、ひらひら、なんだろう?
まあ、ね。小さなハート型の貝割れ菜の上に降るんだったら。
月光も小さくあらねば、その葉の上に降り注げない、か。
…なんてことを思ってしまった。。。
それから、山口誓子の句。
かりかりと蟷螂(とうろう)蜂のかおを食(は)む
蟷螂は、カマキリ。「かお」の漢字(白の下に八を付けたもの)が打ち出せない。
花鳥風月ではなく、リアルな写実。
弱った蜂を頭から食べるカマキリ。
必死に生きているカマキリの、どこが悪い?とでもいうかのような、命の美しさを謳ったもの、と。
当時の俳壇に衝撃が走り、一世風靡したのだとか。
まあ、それも、写実ではある。
「これも俳句」という意味で、視点は面白いけれど。…美しい、かなあ。。
全ての句の解説がなされた後は、各自が「好きな句」を3つ選んで話をする。
私の選んだまずひとつ。
林檎投ぐ男の中の少年へ 正木ゆう子
子どもから大人になるのって。
私はマトリョーシカみたいに、小さな私の外側にどんどんもう少し大きくなった私があるような気がしていて。
そんな風に「構成」されているとしたら、相手の男性の中に「少年」も内包されていて。
その少年に向かって、林檎を放り投げる。
…誰が?
それは、「私」の中の「少女」が、でしょう。
手渡しすればいいものを、投げて渡したくなった「私」。
そうね。そんな茶目っ気は、「私」の中の「少女」がうごめいた、からでしょう。
と、私は、「男の中の少年」より「(私の中の)少女」に目がいってしまった。。
林檎を投げられた「男」は、そんな茶目っ気をちゃんと受け止めてくれた、かな?
…「私」は、男の中にいる「少年」を引き出したかった、のかもしれない。
「男」は、ちゃんと受け止めてくれた、かな?
そうであったらいいな、と思う。
秋風やひとさし指は誰の墓 寺山修司
2つ目に選んだのは、寺山修司の句。
うーん。。情景がよくわからないんだけど。
なんとなく。無視できない、気がして。
秋風を 人差し指を立てて感じる。
その指は、何か墓標のような気がして。
東京渋谷の駅前に立って。
私は本当に「墓標のようだ」と感じた。…巨大なビル群が。
まあ、新宿駅前でもそんな風に感じたけど。
そんなふうな、圧倒的な「墓標」とは異なるけど。
でもまあ、指を立てて風を感じてみて。
夏が逝ってしまったあとの、墓標のように思えた、かもしれない。
うん。この年の「夏」の墓、だよ、きっと。
啄木鳥(きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子
啄木鳥の木を叩く音。そして、風に舞う木々の葉。
なんか、白樺か何かの木のような気がして。
ちょっと長野かどこかの風景のようで。
とてもとても美しい。
と思っていたら。同席されていた方が調べてくださって。群馬県の赤城山で詠んだ句、だそうです。
群馬って長野の隣、よね? あながち間違っていなかったんだ。。
ホント、あっという間に時間は過ぎて。
お時間となりました。
画像は、句会が始まる前に撮った一枚。
もう6時半を過ぎれば真っ暗で。
でも何か、ほっこりする店先の明かりに惹かれて撮ったもの。