折々のことば。2024年3月22日の伊藤亜紗の言葉。
漏れてしまうものがあるということが、社会性を生み出すと思うんです。
鷲田清一の解説。
木漏れ日が地面近くの植物の光合成を促すように、自然界は「あげる」というより「漏れる」ものだらけ。
人間の社会も、互いの状況をある程度漏れ出させておかないと、非常時に助けあうことができないと、美学者は言う。
線を引き、壁を作ってばかりでは「恵みも、出会いも、気配も生まれない」と。
未来の人類研究センター編『テクノロジーに利他はあるのか?』から。
Facebookで「友だち申請」してきた人と、ズームで小一時間話すことになって。
その時に相手の人から伊藤亜紗という人の名前が出て。
なんでも。『どもる体』を読んで面白かった、と。
人から笑われたりして、吃る人は人前で話さなくなったりするけど、実は、身体は、吃ること自体に心地よさを感じているのだ、という記述に。
何か心惹かれるものがあった、そうな。
ふうん。面白いね。と私は応じた。
…そうか…。身体自体は。吃ることが心地良いのか。
そうかもしれない、という気がしたものだから。
そんなやり取りをした翌朝に。「折々のことば」で伊藤亜紗の言葉が出てきたものだから。
おー!となった。
伊藤亜紗。日本の美学者。専門は美学、現代アート。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース教授。博士。 なんだそうだ。
生年月日: 1979年5月18日 (年齢 44歳)
出生地: 東京都 八王子市
出身校: 東京学芸大学附属高等学校; 東京大学
と出ていた。
私の方は。オンラインした20代の彼女に竹内敏晴を紹介して。『言葉が劈(ひら)かれるとき』。
20代の私は、いたく感動して。竹内敏晴のレッスンを受けに東京まで行きたくなったけど。
でもその時にはもう就職してたから。夏休みでも、1週間も10日も休んで東京に行く、なんてできなくて。
そうね。元は1975年発刊のもの。
「劈く」なんて字、読めなくて。「さく」「ひきさく」「つんざく」と読む、らしい。
「耳をつんざく」とは、「耳を突き破る。非常に大きな音のとどろくさまにいう。」とのこと。
言葉、というものは。そんなふうにして「耳を突き破る」もの?
竹内敏晴は、耳が聞こえなかった幼少期があって。それで世界をどう認識する?というときに。
「劈く」をわざわざ「ひらく」と読ませ。…しかも受動態で。
まあ、つまりは。竹内敏晴の、世界の認識の仕方が、そんなふうに感じられる、ものだったのだろう。
そこから始まる、相手に声を届かせるためのレッスン。
教員になったばかりの私は、「集団」にどんなふうに語りかけたらいいのかがわからなくて。
もがいていた。それで、何かヒントが得られるか、という期待があったので、レッスンを受けに行きたかった、のだけど。
そんなやり取りの翌朝。
境界線。
私はゲシュタルト療法を学んで、「境界線を引く」ことの大切さを学んだ。
人間関係の苦しさも「境界線が引けていない」ことから生じる。
心を病む、とは、全て「境界線が引けていない」ことから、と。
私は私。あなたはあなた。
まずはそう区別することが大事だと。
その上で。
引いた境界線をどんなふうに緩めるのか、ということ。を伊藤亜紗は言うんだよね、きっと。
何を許し、何は許さないのか。
うーん。。なんとなく。
私が2年半前、家を建てるときに「私たち」とは何だろう? と思ったことと何かつながってくるような。気もする。
うん。そんな気がする。
私は、これから、人との境界線をどんなふうに引いていくんだろう? の問いかけが。
自宅に「レンタルスペース」を持つ生き方、になるんだけど。
まあ。実際に、やってみないと納得できない質(たち)だから、ね。
36違いで、あなたも丑年ですか?
…ふふふ。丑は頑固、でしょう? 自分が納得できないことは。どうしてもできない、のよねえ。。ちょっと親しみを感じました。
という言葉を、翌朝送った私でした。。
画像は、一昨日の朝に撮った、並んだチューリップ。
「咲いた、咲いた、赤、白、黄色」となるはずだけど。
…何色、植えたんだっけ?