折々のことば。2024年4月30日の永井陽右(ようすけ)の言葉。
自身の思考の輪郭線は常にぼやけていたほうがより良い社会を創ることができる。
鷲田清一の解説。
物事はつねに多元的かつ多岐的なもので、白か黒か、右か左かはっきりさせるというのは賢い選択ではないと、テロと紛争の解決に取り組む活動家は言う。
「共感」がもし、共通項を見つけ一体になろうとすることであれば、それこそが自分たちとは違う人らとの対立や分断を生む。
わかりあえないと思い定めておくほうが、理解の余地は少しは広がる。
『共感という病』から。
…え? 『共感という病』という本があって。
「共感」を求める風潮を「病」と見るのか…と、ちょっと驚きだった。
この言葉の出典に。
まあ。「共通項」を見つけると。「おんなじねー」と意気投合する、のはわかっている。
「わかってもらえた」あるいは「わかりあえる」ことへの安堵。
それは、自分は「ハズレ者」ではない、という安堵、であるかもしれない。
まあ。ひとりきりっていうの、居心地悪いんだね、きっと。
それは、「わかりあえる」が前提になっているからであって。
所詮、人は「わかりあえない」存在である、と思い定めたたならば。
「よかったー」や「嬉しいー」ではなく、「ふうん、そうなんだ。。」という反応になるだけのことで。
でも心の奥底で、どこか「わかりあいたい」があるものだから。
途端に、「人はわかりあえない存在」であることを忘れ去って、手放しで喜んでしまったりする。
うん。わかるよ。
私だって、この歳になっても、「え? そうなんだ! これわかってくれるの?」と有頂天になるし。
で、ある時、それは嘘ではないけれど、その一部分だけのことであって、全てにおいてわかりあえるものではないこと、
いや、むしろ、わかりあえない部分のほうが多いこと、に、はたと気づいて、愕然とする。
「…あ、そうなんだ、ね。ああ、そりゃそう、だよね。。」
それで冷静になって、本来、取るはずだった距離感に戻る。
…まあ、それが、その人とのキョリ感を定めるまでの、一種の「通過儀礼」的なものなんだ、けど。
思考、には輪郭線、があるのか。
それは今まで意識したことはなかったけれど。
言われてみれば、そうかもしれない。
あれかこれか。白か黒か。
曖昧でなくくっきりと自分の考えていることを人に指し示す、には。
輪郭線は、はっきりしておいた方がいい。
けれど、そうすると。
白か黒かに分かれてしまい、
お互い、相容れない、ことが明確になってしまう。
あとは、「物別れ」、ね。
限りなく黒に近いグレーから、限りなく白に近いグレーまで。
本当は、無数の立ち位置があるはず、なんだけど。
明確さは、時として「物別れ」しか選択肢を示さない。
まあ、それはもしかすると限りなく「不自由」かもしれない。
そんな明確にしない状態から、新たな選択肢は生まれてくる、のかもしれない。
そうか。。
でも、自分の立ち位置がはっきりしないと。
なんか、落ち着かなくない?
まあ、いいのよ。
自分は今はこう考えているけれど、と暫定的で。
もしかすると、それが動く可能性もある、よ、と
ちょっと「実線」ではなく、「破線」でものを考えてもいいのかも。
今朝、そんなことを思いました。
画像は、雨に濡れて輪郭がちょっとぼやけた庭先の花。
まあこれも。ちょっといいじゃない?