折々のことば。2024年12月27日の工藤直子の言葉。
私は、「私」という名の、大勢の友人を引きつれているような気がしております。 工藤直子
鷲田清一の解説。
詩人・童話作家は精神科医のなだいなだと語らう中で、思いがけず自分とじっくり対話できたという。
彼によちよち歩きの頃、ニキビに悩む時代、恋文を書いたり消したりした日が残像としてあるように、自分も少女時代の私を「昔の私」として現在の私に付属するものではなく、今ともに歩く「ひと」のように感じることができたと。
なだいなだとの共著『だれだって悩んだ』から。
ふうん。「大勢の友人」、ねえ…。
工藤直子にとって、いろんな年代の自分は「友人」なのか。
まあ、私にとって、いろんな年代の「私」は。
どこかで話した記憶があるけど、ロシアのマトリョーシカのように感じられている。
私が考案した「気づきノート」は。
そうやって、「駄々っ子」である「私」をなだめながら、慰めながら、…時には、言い聞かせながら、やってきた軌跡から生まれたもので。
なんとか自分をなだめる方法として、もしかしたら他の人にも有効ではないだろうか、と思ったものだから。
それを「形」にした。
語らうべき「私」は。
厄介だけど、本音でイヤなことはイヤと言う「私」。
キレイごとでなく、「なんで私がそんなこと、しなきゃいけないの?」と本気で言ってくる「私」。
…まあ、まあ、まあ、まあ。仕方ない、じゃないの? そういうわけにもいかないでしょ?
そうやって、「世間」と付き合っていかないと、生きてはいけない。
けれど、自分の「イヤだと思う気持ち」を無かったことにすると。
途端に「私」はどこかに姿を消す。
何を望んでいたのか、どんなことを願っていたのか、まるでわからなくなる。
そうなると。
「私」は病む。
決して100%、自分の「思い通り」の選択でなくても、どこか「ホントはイヤなんだ、よね…」を保っている自分でありたい。
そうでないと、病んで動けなくなってしまう。
それが、繰り返し、定期的に病んできた私の、サバイバル法だった。
まあ、ね。
HSP(=「繊細さん」)は大変なのよ。
うん。そうね。
カウンセリングルームで、自分と対話する方法がつかめたら。
また、歩いていけますよね?
クライエントさんの持つエネルギーを私は信じている。
だから、私は「終わりのあるカウンセリング」を組み立てる。
画像は、昔々の北海道修学旅行途上で乗った飛行機から撮った、翼。
あなたの翼、見えなくなる時があっても。必ず、有ります!